父は生前、母に向かってよく言っていた。

「身体を大事にしてくれよ。お前がいなくなったら不便なんだから」

すると母は苦笑いをしながら答える

「どうせ私は便利屋扱いなんでしょ。いないと不便なんて、まるで私は道具みたい」

僻んでいたのを聞いて、私はおおいに同情したものだ。そうだそうだ。父は勝手なものである。母が可哀想。しかし今になると父の気持がわからないでもない。母がいなければにっちもさっちもいかなくなることを父は深く自覚していたにちがいない。そしてそれこそが、妻への愛情表現だと思っていたのだろう。

父はその後、母のもの忘れが進んでも、母を頼りたい気持があったと思われる。相変わらず母の身体を気遣いながら、あるとき母にこう言った。

「おい、お前の作るちらし寿司が食いたいよ」

もの忘れもさることながら、耳が遠くなっていた母は、父が何を言っているかわからない。

「え?」

聞き返した。すると父は少し大きな声で、

「お前のちらし寿司が食いたいんだよ」

母は再度、

「え?」

とうとう父は業を煮やして大声を出した。

「お前の、ちらし寿司が食いたいって言ってるんだ!聞こえないのか!」

ようやく理解した母が、

「ああ、ちらし寿司ですか。近所のスーパーで売ってますよ」

ケロリと言い返したのである。私はそれを聞いて爆笑した。積年、圧政に耐えてきた母が初めて主人に反抗した瞬間だった。が、父はどう受け止めたであろう。寂しかっただろうか。かたや母のほうは、家族にさほど必要とされないとわかっても、「ああ、楽チン」とばかり、最期までいっこうに悲観する気配もなく悠々たる老後を過ごした。


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