寝返りも打てない状態だったのに……

ベテランヘルパーのシズエさん(62歳・仮名=以下同)には、10年経っても忘れられない出来事がある。脳梗塞後に在宅療養をしていたAさん(当時72歳)の訪問介護に入ってほどなくのことだった。ご夫婦二人住まいだったが、妻(64歳)はパートの仕事へ。いつものように、寝たきりのAさんの食事介助と身体清拭を終え、新しいパジャマを着せようと、Aさんの背中に手を掛けた。

「Aさんは、一人で寝返りも打てない状態でした。左手は右手を添えて持ち上げるのがやっとで、声掛けしてもずっと天井を見ているだけ。意思決定もできない全介助状態だったのです。だからその時は何が起きたのかまったくわかりませんでした」

Aさんは、上半身を持ち上げ、右手と動かないはずの左手で、がっしりとシズエさんの胸をつかみ、にやりと笑ったのだ。

「思わず、『何するの! 1回500円いただくわよ!』って、馬鹿なこと言っちゃいました。Aさんは悪びれもせず、にやにや笑ってましたね」

冗談で済ませようとしたシズエさんだったが、この出来事は心の中に大きなしこりとして残ったという。「反応があった」「腕が動いた」「目が合った」ということは介護する側にとってうれしい出来事である。それなのに、シズエさんはAさんの妻に報告できなかった。これがセクハラの難しいところなのだ。

Aさんは以前、飲食店を何店舗も経営する実業家だった。経営不振のため社長を辞した直後、会社は倒産。自身は病に倒れ、当時は妻のパート収入でかろうじて生計を維持している状態だった。忸怩(じくじ)たる思いと妻に苦労を掛けている心苦しさからか、リハビリにも意欲を見せない。そんなAさんが初めて自ら行動を起こしたのがセクハラだったのだ。

「胸をつかまれたことと、にやりと笑った顔が忘れられず、そうかといって奥さんに報告することもできない。事業所長に訴えて担当を代えてもらうことしかできませんでした」

ただ、自分が担当を代わっても、後任の人が同じ目に遭わないとも限らない。そう考えると、家族に報告しなかったことが正しかったかどうか自信はないという。ちなみに、それ以後、Aさんの回復はめざましく、今では杖をついて歩けるようにまでなったのだとか。