誘われると、「へいッ」

 文楽ともそうして出合ったのだが、伊藤には富岡の詩も文楽も大阪の言葉ではなく、文字を通して視覚から自分が生まれ育った東京の言葉として入ってくるという。だから、知り合ってから富岡に「行きなはれ」と言われて国立劇場に文楽を観に行ったときも、大阪のアクセントが耳につき、文字で読むような面白さは感じられなかった。そういえば他のひととは違い、伊藤の「トミオカさん」にはトにアクセントがある。
 この時期は、ウーマンリブに代わるようにフェミニズムという言葉が登場した時期である。青山学院大学の学生だった伊藤も、同校の助教授をしていた渥美育子が、富岡の友人の文学者、水田宗子らと出した雑誌「フェミニスト」の手伝いをして、フェミニズムを齧ってはいた。だが、摂食障害に苦しんだ身には、女性器を言葉にして語り合う女性性全開の集会などを目撃すると「すっげえ~」と遠巻きにするしかなく、一番しっくりきたのは、やっぱり富岡多惠子の乾いたフェミニズムだった。
「富岡さんは、女らしくしなくてもいいって無言で言ってくれているようだった。斜めに構えながらいつもファイティングポーズをとっているようなところが、素晴らしかった。詩だけではまだはっきりわかりませんでしたが、『藤の衣に麻の衾』を読んだときは、今までのことが全部わかった。このひとは、こういうことを考えていたのかってね」
 はじめての対談以降、富岡は、「文楽、観なはれ」にはじまり、「評伝やりなはれ、私は写真をやった」「伝記、書きなはれ。ひとの人生まるまる引き受けて」と、伊藤に助言をくれた。時に吐き捨てるような口調で、そう言うのだ。
「『え~、そんなのできません』って必ず言っておきながら、私、富岡さんに言われたままに動いてきたような気がします」
 幾度も一緒に旅に出た。91年に出かけたオーストリア・グラーツの文学シンポジウムで、舞台に立った富岡が「どうせ誰にもわからない」と、自分の短編小説をどんどん飛ばして朗読した姿には、カッケェー! とシビれた。
「それをわかっていたのは私と、その場にいた多和田葉子だけ。私も、何よりつまらないのは日本語のわからないひとに朗読することだと思いはじめていたころです。富岡さんが目の前ですごい形で具現化しているのを見て、できるのか、こんなことがって思ってね」
 グラーツの帰りに寄ったワルシャワでは、部屋がなくてダブルベッドにふたりで寝なければならなかった。ブツブツ言っていた富岡は機嫌を直すと、伊藤の自分語りにもつきあってくれた。あとになって「ああいうのは鬱陶しいもんや。でも、聞いた」と言われた。
「私はそのころ、精神的にひどい状態でしたから、有り難かったですね。飛行機の席をビジネスに換えるよう交渉しろとか、いろいろわがまま言われて下働きさせられたけれど、富岡さんのこと大好きだったから、誘われると、へいッとどこへでも行ってたんですよ」