「あんたには小説は書けない」
しかし、そうした関係は、92年の8月、アイルランドに同行したころから変調していく。
旅の直前に2度目の対談が行われていて、ふたりは「食べることと家族」をテーマに言いたいことを言い、語り合った。ご飯を作らなくなり、「作って食べさせる―食べさせてもらう関係」から逃れて楽になったと話す伊藤に向かって、病気だから夫がご飯を作るようになったと、富岡が惚気ている。最初の対談でも、週末には夫とふたりでテニスに行っていると、話していた。
〈うちでは、私にご飯食べさせなあかんからって、どんなに忙しくても相手は飛ぶように帰ってきます(笑)〉(「クロワッサン」1992年10月10日号)
富岡にとっては、このときの旅は2度目のアイルランドだった。最初は2年前の90年、『中勘助の恋』の編集者である創元社の中村裕子に誘われて、ケルト文化研究の第一人者、鶴岡真弓が引率する「ケルト・アイルランドツアー」に参加したのだ。そして、もう『ひべるにあ島紀行』の構想があった作家は再び鶴岡に引率を頼み、中村と女性グループで行こうと計画して、伊藤にも声をかけたのである。伊藤は今回も「へいッ」とばかりに同い年の詩友、平田俊子を誘って参加したが、7人のグループだったこともあり、富岡とふたりで話す機会はそれほどなかった。
富岡も、若いふたりとは交流が少なかった、と書いている。
〈彼女たちはダンゴ状になっていつもふたりで喋っており、二十年トシのちがうわたしは彼女らとは別のダンゴに属していたわけである〉(現代詩文庫『平田俊子詩集』1999年)
田舎町を行く電車のなかで窓にかじりついて景色を見ていたとき、「詩人やね。あんたには小説は書けない」と突き放したように言われた。車内の人々を熱心に観察して勝手な物語をつくる平田には、富岡は「あんた、その話で小説書きなはれ。ひとに興味があるのが小説家や」と声をかけている。
はじめての小説『家族アート』を7月に出したばかりだった伊藤は、ショックを受けた。
「ガーンとなったのを覚えています。でも、私に小説が書けないのは確かだなとあとになって思いました。富岡さんの予言ですね」