しっかりしてや

 それでも7カ月後の93年3月、伊藤は、富岡がいるとわかっていながら、佐々木幹郎が率いるネパール2週間、詩の朗読会の旅に加わるのである。そして、叱られ続けることになる。
 ちょうど、『家族アート』が第6回三島由紀夫賞候補になろうかという時期だった。富岡は、その作品を小説とは認めなかった。なぜなのか。目撃者の佐々木幹郎が解説する。
「伊藤比呂美の文章のなかに、詩的な、ポエティックな要素が、いっぱい入っているわけですね。長編散文詩といってもいいぐらいに。富岡さんは、そんなものは小説じゃないと認めなかった。だから、動物好きの比呂美がガリガリに痩せて路上にうずくまっている犬――あの国は牛は大事にされるけれど犬はほうっておかれるからね――を見かけて、おお可哀想にと涙を流しそうになりながら触りにいこうとしたら、ものすごく富岡さんに怒られて。『そんなことごときで同情するな、涙を流すな。そんなことで小説が書けると思ってるのかー』っと、全部がそこに行き着くわけですね」
 そのころの富岡は鬱の最中にあったのだが、伊藤も夫と別れたあとのどん底の精神状態だったため、「ひどい目に遭った」という思いしか残らなかった。
「あのときは、相当厳しいことを言われたし、冷たい扱いをされました。でも、考えてみれば、それは私がひどい状態だったからであって、こちらが100パーセント悪いです。だから富岡さんに罪をかぶせるつもりはまったくないです。ただ怖いなぁって。あのまんま富岡さんとつきあっていたらこちらが傷つくので、敬して遠ざけるという感じになっていきました。私も、アメリカへ行きはじめるようになって忙しくなったので」
 ネパールの旅にはもうひとりの詩人、高橋睦郎が参加していた。高橋は、富岡の全集第4巻に「叱られて」というタイトルの文を寄せている。
〈すぐの弟(注・高橋)と一番下の妹(注・伊藤)はくりかえし叱られる。私の場合、叱られる理由は大食で、朝などあまり食欲のない比呂美ちゃんの分まで食べていると、大目玉が飛んだ。タカハッさん、あんた何考えてんの。いったい幾つやのん。うちのキシオ(ご主人のこと)かてそない食べへんわよ。すこしは歳(とし)考えなさいよ〉(『富岡多惠子集4』「月報」1999年3月)
 全集が出て2年ほどが過ぎたころ、作家は大阪発信の雑誌連載で書くのであった。

〈また以前に数人で外国へいった時、わたしに叱られてばかりいたと、帰国後に訴えているひとがいて驚いたことがあった。訴えたひとは大阪人ではない。親愛をこめた「しっかりしてや」というような言葉も、笑いを誘わず、叱正だと受けとられたのである。/そのほかにも、会合のあとの約束の会食を挨拶もなしにとつぜん帰ってしまったひともいた。わたしの大阪語的表現を誤解したからだった。なんと因果な「大阪」だろう〉〈とにかく大阪を出て四十年の間に、身体は大病することもなく過ごしたが、ほとんどが大阪語、大阪的冗談、大阪的会話による相手方の誤解によってココロは傷つき、何度もウツ病で倒れた。しかも、こういうことを訴えても、だれもホントにしない。さらにココロの傷には塩がすりこまれる〉(「ミーツ・リージョナル」2001年8月号)

※次回は5月22日に公開予定です。

(バナー画提供:神奈川近代文学館) 

   

 

 

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