アイルランド旅行
平田俊子は、このときが富岡とは初対面であった。富岡の全集第1巻の月報に寄稿した平田の文に、アイルランドの旅の思い出が綴られている。
〈わたしと伊藤比呂美は何かにつけて富岡さんの不興を買い、連日怒られてばかりいた。富岡さんに怒られたという以外、どこにいって何を見たのか覚えていないぐらいである〉(『富岡多惠子全集1』「月報」1999年4月)
69歳になった平田は、37歳のときのアイルランド旅行を思い出すと笑うしかなかった。あのとき、富岡は57歳だった。
「今の私よりずっと若いんですけど、富岡さんはとても貫禄がありました。背が高くて、姿勢がよくて、思ったことは容赦なくおっしゃった。何かにつけて怒られましたよ。昔、進藤英太郎の『おやじ太鼓』というドラマがありましたけど、あんなふうにいつ雷が落ちるかわからない。理不尽なことで怒られたりもしましたが、反論するとさらに怒られそうなので、黙って聞いてました」
富岡の希望もあって領主のマナーハウスを転々とするツアーで、夕食は毎晩豪華なディナー、富岡たちの「ダンゴ」はそのための服に着替えて席に着く。若い「ダンゴ」はバックパッカーのようなものだから、正装など用意していない。最初のうちは楽しかった平田も、大飢饉のあったアイルランドへ来て毎晩贅沢していることに気がひけて、ディナーの席でつい「申し訳ない気がする」と口にしてしまった。たちまち、「なんでそんなこと言うの。そんならあんたはもう、明日から何にも食べんとき!」と怒鳴られた。
ホテルの前で痩せこけた黒猫を見かけ、骨が飛び出た背中を撫でているうちに死んだ自分の猫のことを思い出して涙した平田の後ろから「カノジョはセンチメンタルになってるねえ」と冷ややかな声が飛んできたこともある。
「ああ、これが富岡さんだなぁと思いました。冷静な観察と遠慮のない発言。それがなくなったら富岡さんじゃなくなるでしょうね。優しいところもあって、あるとき、怒鳴ったあとにパッとこちらを見たからまた怒られるのかと思ったら、『あんた、カップラーメン食べるか?』。いっぱい日本から持ってきてたようなんです」
アラン島の海辺を歩いていたときのこと。塀のように石が積まれた前で、黄色いネッカチーフを頭に巻いた富岡は中村に「あんた、あっちから私を撮って。私、獄門さらし首みたいにするから」と言い、実際に石の上に頭を出してさらし首のポーズを取った。遠くにいた中村に「あなた~」と大声で呼びかけて、「あっ、ダンナと間違えた」とテレながら首をすくめたりもした。
「夫のことを『あなた』と呼ぶのかと新鮮な気がしました。家庭での富岡さんのことを何も知らなくて。想像しようにもイメージが浮かばなかった」
キョーレツな富岡体験だったが、島根県隠岐島に生まれ、立命館大学時代を含めて15年以上関西に暮らした平田は関西人には馴染んでおり、どこかでそれを面白がるところもあった。富岡が頭につけているもののことを平田が「髪留め」と呼ぶと「髪留めと違います。これはバレッタというんです」と叱るような口調で言ったり、「私、昔レコード出したことあるのよ。まだ学生だったころの坂本龍一が私の詩に曲をつけてピアノを弾いてん」と自慢したりするのは微笑ましかった。だが、生粋の東京人だった伊藤にはそんな余裕はなかったようで、「私の前で二度と富岡さんの名前を出してくれるな」と平田に告げた。