「私が私が、ではあかんで」
『富岡多惠子集』と『平田俊子詩集』が刊行された1999年は男女共同参画社会基本法が公布され、日本でピルが解禁された年である。伊藤比呂美は、この年、『ラニーニャ』で、野間文芸新人賞を受賞する。2人の娘を連れて日本を出た女性が、南カリフォルニアで暮らす日々を描いた作品集。
伊藤は、富岡が選考委員のひとりだったと知って、93年のネパールの旅以来、音信不通だった作家におずおずと電話をかけてみた。
「富岡さん、伊藤比呂美です。ありがとうございました」と最初の挨拶が言い終わらないうちに、富岡のガサガサした怒声が降ってきた。
「あんたなぁ、あんなこと書いてたらあかんで。『私が、私が』って、そんなものを書いてたってなんにもならへんで。私は、あれは、小説とは認めてへんからね」
富岡は、34歳のときに書いた自身の最初の小説を、編集者への手紙で「prose(おそらく小説というのははばかられるので)」だと突き放している。才能を認めた年下の詩人が44歳になって書いた小説にも、厳しかった。そのときの選評「共通語化とは」に、こうある。
〈今回は七冊の本を読んだ。程度の差こそあれ、私的言語の領域を自己肯定するものがほとんどで、勝手にいうとれ、といいたくなるものもあった〉〈幼児のごとく、ねえねえ聞いて聞いて、と訴えてきても、親か恋人ならいざ知らず、「読者」はボランティアではないのである〉(「群像」2000年1月号)
「勝手にいうとれ」や「読者はボランティアではないのである」には笑ってしまうが、ほとんど伊藤へ向けての言葉だろうし、とすればそこには親和性も感じられる。ただ、厳しいといっても選考委員のなかで富岡だけが厳しかったわけではない。柄谷行人などは〈現在、どの文学賞の受賞作もひどく、選考委員もお粗末である〉として、今回で選考委員を辞めると宣言していた。
精神的な落ち込みからはすっかり立ち直っていた伊藤は、受話器から聞こえてくる富岡の否定も叱咤も想定内だったので、それほどダメージがあったわけではない。それでも、「わかりました~」と電話を切ると、これを最後に富岡と会うことも、富岡作品を読むこともなくなった。
「ただ、『私、私はあかん』ってこと、それは言われてむちゃくちゃよかったんです。すっごくよかったんです」