詩壇と文壇
当時の伊藤は、離婚したばかりのシングルマザー、自分の稼ぎで子どもふたりを育てていかなければならなかった。現在もだが、そのころも詩作だけでは食べていけない詩壇の事情は、池田満寿夫と別れた富岡がエッセイを書き、小説を書くようになった30年前となにも変わっていない。だから小説と真摯に向き合い、娘たちを食べさせていこうと考え、「群像」で何作かを発表したのだが――。
「どれもこれも思うように書けなかったんですね。やっぱり、詩人、とくに私は自分からオブジェクト(対象)を見る距離感が必要で、そうすると、『私』という一人称しか使えないんです。詩人として培った言語能力を生かそうとした結果の『私が』だったので、戦略的にそれを使ったところがありました。だから富岡さんに言われて、『それは考えた末ですよ』と言いたかったんだけれど、富岡さんにあそこまで言われるとこたえるから、また考えるんですね」
考えてもなかなか「私が」が外せなかった伊藤は、「私」を私ではなく、他者にしてみることにした。調べて調べて調べて、苦労して苦労して書き上げたのが、「スリー・りろ・ジャパニーズ」だった。
「それはとてもいい経験になりました。でも、私、それを書き終えたあたりで、嫌になっちゃったんですよ。小説って何だろう、よくって芥川賞候補でしょ。芥川賞って、新人賞なんですよ。私、詩人としてキャリアあるんですよ。なのにここからはじめるのかと思ったら、嫌になるんですよ」
富岡は3度、芥川賞候補になり、途中「降ろしてください」と言ったほどで、いずれも受賞しなかった。伊藤も98年「ハウス・プラント」、99年「ラニーニャ」と2度芥川賞候補となって、獲っていない。
「2回落っこちると、もう二度とやるかみたいな気になるんですよ。しかも、毎日書いても満足いくものは書けないから、思ったほど稼げません。富岡さんだって詩であれだけ人気があって、エッセイで稼いでいて、小説家になったら収入減りましたとおっしゃっていました。
その上、どこまでいっても私たちは『詩人の小説』って言われるんですよ。まるで移民です。『丘に向ってひとは並ぶ』なんて、あれはリズムは詩人の小説で、そこがすごかったのにね。実生活で移民として苦労しているのに、キャリアでも移民として一からはじめるのかって嫌になりました。しかも、文壇って詩壇に比べてうんと大きいんですね。野間賞もらったときの授賞式なんか、あらゆる編集者が、面白いくらい文壇の大作家のことしか見ていなかったし。でも、ほとんどのひとは、富岡さんも、向こうの世界に行くと帰ってきませんね」