スケッチする富岡多惠子(写真提供:菅木志雄氏)

耳元で響く声

 富岡は詩に別れを告げたあと小説へ向かい、76年に出た「現代詩手帖 5月臨時増刊 富岡多恵子」で八木忠栄の求めに応えて10篇の詩を発表したきりである。詩に戻った伊藤は、なぜこの10篇に、『厭芸術反古草紙』を読んだときのような興奮は感じられなかったのか、よくわかった。
『厭芸術反古草紙』の「はじめてのうた」のラスト。

 クラナッハの
 なめらかな女の
 繊細な陰毛
 アクア アクア
 水をください
 水わりではない
 わたしはどこへもいかなかった

「なんで、どこからアクア、アクアって出てくるんだ? 最初の3行はつながっていて、あとは一行一行がまったくつながってないんですよ。本当に意味がない。でも、意味がある。どこかスポーンと抜けた感じがして、開けた空の下にいてゴクゴク水を飲んでいるような読書体験でした。現代詩でこんなことやったひとは、他に誰もいません。私はこの富岡さんに衝撃を受けて、富岡多惠子を身体にいれて書いてきたんです。でも、小説を書いている富岡さんの詩には、こうした飛翔感がなくなっていた。つまらなかった。散文っていうのは、一行一行がつながっていて、つまり歩いていく感じだから。ああ、富岡さんは小説家になったんだなと思いました」
 小説に背を向けた伊藤は、2006年に長編詩『河原荒草』で高見順賞を受賞、翌07年に出した『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』で萩原朔太郎賞と紫式部文学賞を受賞する。富岡が行きそうなところには顔を出すことさえ避けていた伊藤なのに、書いているあいだはいつも耳元で、富岡の「私が私が、ではあかんで」という声が鳴り響いていた。
「『とげぬき』のときが、一番聞こえていた気がします。あの作品は『私が私が』の集大成で、ずっとやってみたかった説経節を現代詩でやってみたんです。で、『私が私が』を突き詰めたらどうなるか。富岡さんの声に反するように『私が私が』を過剰にしていくと、『私たちが』になったんですね。富岡さんに、私はやりましたよ! と言いたかったです。まあ、説経節は近松以前の文楽の初期型で、つまりは富岡さんに教えてもらったことなのでえらそうには言えませんが」
 伊藤と出会う前、47歳のときに書いた富岡の「近松の浄瑠璃」という随筆がある。子どものころから聴いていた近松を、高校生のときに国語の教科書で読むことで言葉が音楽を持っていることを知って感動したとあり、続ける。

〈三十歳をすぎたころからの四、五年は、詩への愛着と未練、散文小説への欲求と足ぶみで、なにがなんだかわからないのだった。詩から散文への道筋は、高校の時「生物」で習った術語をかりると言葉の系体(ママ)発生の道筋であり、自分の言葉の個体発生もそれをくり返している実感のようなものがあった。そのころに、近松の本を、今度は学校の先生にいわれるのでなく、自分から読んだのだった〉〈何度か、好きなものやおもしろいものをくり返して読むうちに、語りもののおもしろさと、語りものを読むむつかしさに気がついたのだった。しかし詩から散文ヘとひとりで道行する者には、語りものを読むのは貴重な体験であった〉(『はすかいの空』1983年)

 作家が20歳離れた詩人へ、「文楽、観なはれ」と言った理由だろう。散文から再び詩に戻った詩人にも、その助言は大きいものであったということになる。
 伊藤は、『河原荒草』も、『とげ抜き』も富岡に送呈している。反応はなにもなかった。