逃れられない背後霊
2004年、富岡多惠子が日本芸術院賞を受賞した年、平田俊子は、詩集『詩七日』で、萩村朔太郎賞を受賞する。選考委員のひとりが富岡で、受賞を強く推した。
平田は、にこにこと笑って語る。
「富岡さんは、整然とした、詩らしい詩には興味がなかったのではと思うんですね。私は、おそらく富岡さんの影響もあって、詩らしくないものを書いてきた。そういうところを面白がってくださったんだと思います。町田康さんが朔太郎賞を受賞したときも、富岡さんが強く推されたように聞きました」
平田が富岡と会う機会はそれからもそう多くはなかった。そのなかでも忘れられないのは、高齢になった白石かずこのパーティーでの出来事である。スピーチに立った谷川俊太郎が、「かずこさんがいつまでも若々しいから、同い年の僕は安心して歳をとれない。かずこさん、もっと歳をとってください」と白石の若さを言祝いだ。そのあとスピーチしたのが富岡だった。
富岡はマイクの前で谷川を叱った。
「歳をとらないためにかずこがどれほど努力してるのか、わかっているんですか!」
会場はシーンとなった。
「まさに『おやじ太鼓』。谷川さんのスピーチが富岡さんの逆鱗に触れたようでした。富岡さんは自分の思いを正直におっしゃったんでしょうけど、会場の雰囲気は一変し、みんなどうしていいかわからなくて嵐が過ぎるのを待つ感じでした。谷川さんがお気の毒でした」
それからしばらくした2008年2月、ドイツ文学者の川村二郎の告別式が、平田が富岡と会った最後となった。富岡は平田を見つけると「こんなところでしか会われへんなあ」と笑いかけた。
平田俊子は、富岡が47歳で書いた評伝『室生犀星』を幾度か読み直している。
「富岡さんの分析に相槌を打ちながら読んでいます。犀星は寂しい境遇で育ちましたが、同郷の教師だった女性と結婚し、子どもも生まれ、猫を何匹も飼いました。朔太郎のような美男子ではないけれど、愛情深くて、病気で半身不随になった妻の面倒も最後までみました。こっそり浮気もしてましたけどね。俗っぽいところや人間くさいところがたっぷりある人で、富岡さんはそういうところに惹かれたのではないでしょうか。富岡さんと同じように詩人として出発し、のちに小説に移ったことにも感じるものがあったのでしょうね。気力や体力が漲った時期でないと、こういう評伝は書けないように思います。私が犀星ファンということもあって、読み直すたびに圧倒されます。富岡さんの詩や小説ももちろんいいけれど、エッセイや評論なども読んでると血の巡りがよくなります。『室生犀星』は富岡さんが残した重要な作品の一つではないでしょうか」
伊藤比呂美は、どこまでも背後霊のような富岡から逃れられなかった。早稲田大学で詩学を教えたときは、見込みのある女子学生には「富岡多惠子を読め」と勧め、富岡に導かれるように『石垣りんの詩集』を編み、森鴎外の伝記を書いてきた。
「ああ、富岡さんが言ってたなぁと思って、やんないとなぁ、向かい合わないとダメだと思ってね。今思えば、親のようなもんですね。うちの娘もそうですが、親だからこそ反抗して、反抗して。親だからひどい目に遭わせたとも思うし。見たくもない親ですけどね。アッハハハ。
ネパールのとき、大使館のディナーで呼ばれたんですね。ああいうとこって、食前酒が出るでしょ。『どうしたらいいんですか』と聞いたら、富岡さんは『こういうときはシェリーにしなはれ』って。シェリー、シェリー。いまだに覚えてますよ、こういうときはシェリー」
2023年4月8日、訃報を聞いた日、伊藤はたまらず古本屋サイトを開き、『富岡多惠子集』全10巻を 5万8000円で買った。
※次回は6月1日に公開予定です。
(バナー画提供:神奈川近代文学館)