また、24年に事務所のすべての役割から退いた頃から、認知症の初期症状が表れ始めた。この日、元春さんが打ち合わせからずっと同席していたのも、江森さんの姿が見えないと不安になってしまうからだという。
「私は仕事柄、夫の頭の中がどうなっているかわかるでしょう。だから先走って、あれは危ない、これはダメって言いたくなる。出かける支度など、今まで10分でできたことが20分かかると理解していても、つい『早くして』とドアの前で足踏みしちゃう。
ああ、認知症の方の家族はこういう生活を送ってきたんだと。これまで当事者でもないのに偉そうなことを言って、申し訳なかったと思います」
もちろん、経験が役立つこともある。たとえば、今日の日付がわからず時間の感覚も薄れてきた元春さんのために、巻物状のカレンダーを作って、「病院の受診」「雑誌の取材」など大きな予定だけ書き込む。
「それ以外に、私と夫の一日のスケジュールも1枚の紙に書き出し、《見える化》しています。でも3時から外出と書いたら、時間ぴったりに荷物を背負って待ってる(笑)。予定が変わると混乱してしまうので、どんなに忙しかろうと私も予定通りに行動しないといけないの」
最初に渡された細かい予定表には、そんな背景もあったのか――と考えていた時、江森さんのスマートフォンがピピピと鳴った。どうやら訪問看護の利用者さんの容体が変わったらしい。
江森さんは「ごめんなさい。3時になったら『すみか』で『ハーモニカ』ですから」と事務長の木村さんに言い残すと、駐車場へと駆け出して行った。
ハーモニカとは、元春さんが小学校1年の時から続けてきた趣味。それを峠茶屋やすみかのお茶会などで演奏するのが、長年の楽しみだった。その習慣は、認知症を発症した今も変わらない。元春さんは、ハーモニカを吹くことが生きがいだと、照れくさそうに話してくれた。