60代のシフトダウン
「あの方は、時代に反逆するというか時代の男女関係に揺さぶりをかけるとか、そこに重点を置いておられることはよくわかっているのですが、それは表向きのことで、僕は本来は違うと思ってた。言葉になかなか言い表しがたい体験的なもの、宗教的な体験といっていいものが差し挟まれていたと思っています。それをどういうふうに言挙げするかは戦略の問題かもしれませんが。で、そこのところを挑発して、『猫にでもなられたらいかがですか』なんて冗談言うと、笑っておられました。容易に言語化できないものに執着し、だからこそ苛立つ富岡さんを、僕は愛してましたからね。尊敬は絶対崩してはいけないという前提で、ずい分甘えさせてもらいました」
こうした作家と編集者の信頼関係から生まれたのが、『西鶴のかたり』刊行から8年後の『発言』集であった。
「自分にとっての富岡多惠子を社会的に突き出したいという衝動がどこかにあったのですが、文学に慣れている出版社だったら実現しなかったかもしれません。富岡さんの協力のもとで、僕がベースをつくりました。次のステップで全集をというのが富岡さんにも僕にもありましたが、そこまでいけませんでした」
『発言』集から3年後、富岡63歳の98年秋に文学を守備範囲とする筑摩書房から、『室生犀星』の編集者、間宮幹彦の手で『富岡多惠子集』全10巻の刊行が開始されることになる。装丁は作家の夫、菅木志雄が手がけた。
富岡は93年に出した評伝『中勘助の恋』で読売文学賞を受賞し、60歳で連載をスタートさせた最後の長編小説『ひべるにあ島紀行』を61歳で書き上げた。信頼を寄せた松井今朝子に「もう小説は書けないから、60歳でやめる」と告げた心づもりを、実行したのだ。バブル崩壊後の不況の波が出版業界をも飲み込もうという時期で、当作で野間文芸賞を受賞した作家は、以降書くペースを確実にシフトダウンさせていく。
〈病気からぬけ出しはじめたころから、イナカで自分のペースで自分のしたい仕事をしていこうと、やっと覚悟ができたようである〉(講談社文芸文庫『逆髪』2008年)
この時期、富岡はある年下の女性作家に「若いときは私が亭主を食べさせてたんやけれど、今は亭主に食べさせてもろてんねん」と半ば惚気るように話していた。
大阪が生んだ巨人、国文学者・折口信夫の評伝『釋迢空ノート』の不定期連載を「世界」でスタートさせたのは62歳の初夏で、単行本が刊行されたのは65歳の秋、世紀が変わる直前の2000年10月であった。20歳のときに詩を書くきっかけとなった「先生」、小野十三郎の詩集を折口信夫が手元に置いていたことを知ったことでこの評伝に切実な気持ちになったと、連載をはじめるにあたっての文章にある。折口信夫が戒名を筆名としたのはなぜなのかという謎解きから入って、家族、同性愛、大阪といった括りでその詩と小説を読み解いてゆく作品は、自身の体験と深い洞察力と跳躍力ゆえ、一行一行に説得力を持つ。取材を含めて5年にわたる伴走者は、中川だった。