自分自分言うてナンボのもんやねん
連載開始直後、塩飽は結婚のために三重県へ引っ越し、フリーとして富岡の担当をすることになる。作家は「結婚したらいろいろあるやろけど、祝福するわ」とウエッジウッド・ワイルドストロベリーシリーズのハート形写真立てを贈って励まし、大阪へ出向くと38歳年下の編集者を誘い出した。『釋迢空ノート』で紫式部文学賞を受賞したときは、宇治市で行われた授賞式に「あんた、文学賞に出たことないやろ」と声をかけてくれた。
そこで塩飽は驚くべきシーンを目撃する。富岡の前に一般公募で紫式部市民文化賞を受賞した女性が着物姿で泣きながら「死んだおじいちゃんに捧げます」と挨拶したのだが、富岡は彼女に「映画俳優やあるまいし、作家が言うもんやない。文芸ってそんな甘いもんやない」と痛烈な一言を放ったのである。会場は静まり返り、主催者はうろたえた。
だが、塩飽から話を聞いた江は大笑いした。
「そんなおばちゃん、大阪の旧(ふる)い下町にはようけいてますから、僕やったら速攻で『ええ勉強になりました』て返します。あのひと、東京では言葉のやりとりで邪魔くさいことがいろいろあったんでしょうね」
〈大阪語のもつ距離感覚がまったく通用せぬ土地で、通用せぬひとと喋る時の苦痛と失敗をさんざん味わってきて、距離感覚の「距離」とはシャイネス(はにかみ)なのであろうと四十年してやっとわかってきた。恥ずかしがり、繊細さ、といえば、およそマスコミでつくられた、ガチャガチャした「大阪」のイメージからは遠く見えるが、それらはほとんどハニカミの裏がえりである〉(「ミーツ・リージョナル」2001年8月号)
18歳まで北九州で育った塩飽に、富岡はさまざまなことを教えてくれた。
「『ミーツ』の編集部は大阪の生え抜きのひとが多くて、異文化のなかにいる異邦人みたいな気分になって悩んでいた時期でした。富岡さんも大阪に後ろ足で砂かけて出ていって、自分のなかにちゃんとした文化を抱えつつ違う文化のなかで生きていかれた。原稿をいただくなかで、一緒に仕事するひととも共有できなかったものが言語化され、整理されていきました。笑いながらすごい哀しい話をするとか、憎たらしくてしょうがないけどむちゃ愛しているとか、そうした二律背反みたいな感情の落としどころというか、人間の根本のところを教えてもらった気がしてます」
江が語る。
「それをハニカミだとお書きになりましたが、あのひとには、『自分自分言うてナンボのもんやねん』という、質のええ大阪人の持つ諦感があるんですね。僕は富岡さんの詩や小説、評論があったから出版社がほとんどない関西でも仕事をしてこられたんですが、原稿いただいて、改めて東京に行かずにここで仕事をやっていて間違いなかったと思いました」