求めていた文学者
したい仕事だけをするようになった作家は、折口信夫を書き終えると、小泉内閣が発足した2001年の春、関西のタウン誌「ミーツ・リージョナル」(以後「ミーツ」)で連載をスタートさせる。その10年ほど前に、産経新聞で1年間「大阪のこと」を連載したが、今度は「大阪語」について書いた。
富岡の登板を強く乞うたのは、「ミーツ」の創刊にかかわり、当時、編集長であった江弘毅である。関西文化の発信者として知られ、数々の大阪論を著してきた江は、富岡より23歳下で、58年、大阪はだんじりの町・岸和田に生まれ育った。富岡を知ったのは高校生のときで、「POPEYE」が創刊されたばかりの70年代後半だった。
「大阪にアメリカ村ができて西海岸の風が吹いていた時代、友だちに洒落たヤツがいて、富岡多惠子の詩集読んでたんですよ。パラパラとめくってみたら、略歴には、伝法(大阪市此花区)という大阪のヴァナキュラー(土着)なところから出てきた、とある。それから作品を読むようになりました。坂本龍一と歌謡曲つくってはったりもして、ごっついカッコええな、これが求めていた街的な文学者やと思ったんですね」
〈ことばははじめのどもとからもどしたようにとつぜんでてきた。わたしはそれを都合のいいようにならべていって自分で感心しておればよかった。(略)/ゲタをはいてひとりで歩いていたオオサカという土地は処女のくらい町であり、ひろいあつめたことばと胃袋につめこまれたことばを手づかみで地べたに放り出していた〉(『富岡多惠子詩集』あとがき1967年)
身体から言葉が迸(ほとばし)り、その大阪的身体がかいま見える詩や小説を愛さずにはいられなかった江は、「ミーツ」創刊のときから富岡多惠子なくして京阪神の雑誌にはならないと考えていた。何年待ったか。手紙を出し、作家から「大阪へ行きます」とファクスが届いたのは『釋迢空ノート』が刊行されたころだった。「僕が伊東に行きます」と連絡すると、今度は「遠いから気の毒、私が大阪へ帰るから。仕事を減らしているので、ミナミの日航ホテルに部屋をとってほしい」と届いた。そのファクスにまたもやられてしまう。
「要は一泊おごってくれと書いてあって、僕の思てたとおりのひとやと思いましたわ。大阪弁で言うところの、様子しはらへん。カッコつけはられへんのですよ」