書くのも読むのも大阪弁

 江は、担当者となる副編集長の塩飽靖子を伴い、ホテル日航大阪のラウンジで憧れのひとと対面した。制度化された国語で習う「正しい」標準語からどうしようもなくはみ出る大阪語についてのコミュニケーション論を書いてもらいたいと考えて、「いっぱしのコトバ」とタイトルをつけた企画書を差し出した。目を通した富岡は、いきなり「あんた、うまいなぁ」とほめた。「よう、考えました」と江は答えた。横にいた塩飽に小さな声で「ほらみてみい」と言ったら、富岡はアハハと笑った。そして着ていたポール・スミスのシャツに目を留め、「それなに描いてあるのん? ええ柄やね」と言うのだった。生家が洋装店で著書にファッション論もある編集者には、とどめの一発だった。
「もう、わぁ~となりますやん。『詩やコラムも大阪弁で書いてはるんですか』とお聞きしたら、『そらそうです。新聞も大阪弁で読んでます』て。字面は標準語でも富岡さんの頭に流れるイントネーションは大阪弁で、僕の思っていたとおりでした。お洒落な2つの眼鏡を文字を読むときとそうでないときにかけ替えて、『私は目もあかんし、もう3つも4つも連載でけへん、あんたのとこだけや』って暗に原稿料はずめと言わはるから、こっちもわかってますやんて。心斎橋筋の瀬戸物屋のおかみさんみたいな方でした」
 このあと、「ご飯に行こ」となったのに先約があり同行できなかったことを、江は一生悔やむことになる。
 作家を、まだヴォーリズのファサード(外観)があった大丸の前を通ってナンバのかやくご飯で有名な「大黒」へ案内したのは、27歳の編集者だった。現在、軽井沢町立図書館で司書として勤める塩飽が振り返る。
「富岡さんはスーッとしたきれいな方でした。大阪人は大丸でも値切るなんて話をしながら『大黒』に着いたら、すごい喜ばれて。キョロキョロしながら『みんな、同じもん注文してはんね』って。あのときはかやくご飯と白味噌の味噌汁とぬたと焼き魚という王道メニューに、冷や酒。『たこ焼やお好み焼は大阪の文化のひとつではあるけれど、私らみたいに古い人間にとってはこっちがほんまもんの大阪やねん』とおっしゃっていました」
 江は、最終ページを用意して崇拝する作家を迎えた。文芸編集者から散々「怖いひと」「難しいひと」と聞かされていたのに、富岡は締め切りに一度として遅れることはなく、「これ、ちょっとわかりません」と原稿に注文をつけてもすぐに書き直してくれて、機嫌よく仕事ができる相手だった。だが、何より驚いたのは反響の大きさだ。ANAグループの機内誌「翼の王国」の編集長だった粕谷誠一郎からは、すぐに「富岡多惠子さんの連載が始まりましたね」と手紙が届いた。
「挨拶も何もなく1行目にそう書いてあって、これで雑誌らしくなったって。僕、その手紙を編集部のみんなに回しましたもん。ちょうどそのころ、ライバル誌の『ぴあ関西版』に坪内祐三さんが大阪論を連載してたんですけど、『江さんのとこで富岡さんがやってるから、俺、ちょっと荷が重いよ』とおっしゃったと聞きました」