97歳の今も、悩める人たちに優しいメッセージを届け続ける瀬戸内寂聴さん。瀬戸内さん自身も58年前は悩みの渦中にいました。「瀬戸内晴美」として文壇で華々しく活躍していた昭和30年代、妻子ある作家(文中の「J」=小田仁二郎)との8年にわたる恋愛に終止符を打とうとしていたのです。「J」への愛情と、文学への渇望に灼かれつつ生きた8年間の清算を綴った生々しい手記を公開します。

※本稿は、瀬戸内寂聴・著『笑って生ききる』の一部を、再編集したものです

私の全く知らない私の数奇な半生

2年ほど前のある日、私はN町から西武線に乗っていた。何気なく見上げた電車の吊り広告の文字が目に入ってきた。四流どころの週刊誌の広告だ。

「或る女流作家の奇妙な生活と意見」

白ぬきの文字は他のどの見出しよりも大きく、ビラの真中におどり出るように浮き上っている。やれやれ、気の毒に、また誰かが変な記事に書かれたんだな、私は全く他人事だと思って、のんきにそのビラを見上げ、仕事仲間の気の毒な被害者に心から同情した。どうせ、当人にとって名誉な記事でないことは、その雑誌の性格からいっても十分想像出来た。

新宿へ着き、私は人と待ち合わせるため、喫茶店に入った。ちょうど目の前に、店のそなえつけの週刊誌が何冊かなげだされてあり、電車のビラで見て来たばかりのそれが、一番上にのっていた。私はヤジ馬根性と好奇心からそれをとりあげてめくっていった。

呆れたことに、私自身の大写しの顔がある頁の真中からいきなりとびだして来た。ぎょっとして目を据えると、まぎれもない、電車の広告の文字がその頁の見出しにでかでかとのっている。私の写真の斜め下には、御丁寧にも、私の愛人のJの顔までのっていた。両方とも、いつとられたか自分では覚えもない写真だった。そこまで見てもまだその記事が自分のこととはピンと来ず、私は文字を拾いはじめた。

怒るよりも思わず吹きだしてしまうようなでたらめな話がそこにはまことしやかに書き並べてある。私の全く知らない私の数奇な半生が描かれていた。それによれば、私は夫の家をとびだし、京都で京大の学生の子供を産んだのだそうだ。

また私は妻子あるJと公然と同棲し、最近Jがさる週刊誌に連載小説を書きだし、「作家として一人前になったので、もう私の役目は終ったから、身をひいて奥さんにかえしていい」とインタビューされた記者に語ったのだそうである。

読み終り、私は思わずふきだしてしまった。私の半生なるものは、私の小説のあれこれから何行かずつ拾いあつめて、つぎあわせつくったものらしい。それにしても、私は小説の中でも京大生の子供を産む女の話など書いたことは一切ない。また私は、その時まで、そんな記事のためにインタビューをされたことなど一切ない。電話さえかかっては来ていない。

私はその「奇妙な女流作家の生活と意見」を拝見し、電車の中でビラを見上げていた自分の顔を思いおこしまるで漫画だと自嘲した。家に帰った頃、次第に怒りがこみあげて来て、電話でその社にどなりつけたけれど、そんなことには馴れているらしい相手はぬけぬけと平気だった。