「かわいそう」が耐えられなかった
小学校では自分だけお小遣いがなく、友達との付き合いに困った。「ナミちゃんは貧乏でかわいそう」と思われることや「ナミちゃん、あげる」とモノを恵まれるのが辛かった。「かわいそうだから優しくしなきゃ」「ナミちゃんちは貧乏だから下。私たちは上」という声が聞こえる気がした。
修学旅行にも行けなかった。「エホバ」で偶像崇拝が禁止されていて神社仏閣に参拝できないという理由を掲げたが、本当はお金がなかった。5年生で転校したばかりで友達もいないし行きたくもなかったけれど、旅行の班決めや旅のしおり作り、説明会にも参加せず、ずっと下を向いて座る私を見てコソコソと噂されたり「なんで修学旅行に行かないの?」と無神経に聞かれたりするたび、恥ずかしくて、情けなくて、その場から消えたかった。
どうして私だけこんな思いしなきゃいけないの……という怒りと悲しみが押し寄せ、泣き叫びたかったけれど、そんなのはもっと惨めなので
「用事があって行けないんだよね。でも東大寺とか年寄り臭いし、別に行きたくないからちょうどよかった!」
と言った。
私を、友達と笑って仲良くなるための道具にするな。自分より下に見て安心する道具にするな。親のお金のくせに。自分では何もできないくせに。
どんな持ち物も、体験も、食べ物も、羨ましくなんかない。ただ、かわいそうだと思われることが耐えられなかった。
貧乏による惨めさを味わうたび、どんどん人間を嫌いになっていった。「そんな想像もできないなんてアホな人間。逆にかわいそうだ」と思うことで歯を食いしばった。私はのほほんと生きている想像力のかけらもないヤツらとは違う。いつか思い知らせてやる。この悔しさをバネに強くなるんだ、と思いながらこれまで生きてきた。
あの頃の貧乏が、私を作家にしたのかもしれない。これまで裕福な人たちを羨ましいなんて決して思っていないはずだ。リカちゃんだけは除くけれど。
だが、本当はどうなんだろうか?
みんなが駄菓子屋で楽しそうにお菓子を選んでいるのも、色とりどりのロケット鉛筆を使っているのも、ゲームボーイで遊んでいるのも、学校帰りにハンバーガーを買って食べられることも、本当に羨ましくなかったんだろうか?
貧乏だったから今の私がある、これで良かった、そう思わないとやってられないだけなのかもしれない。