
1 かわいい彼女
空は晴れている。
深い青。季節は夏のようだ。駅前の商店街、すずらんを模した街灯が青い空を背景に並んでいる。
赤やピンクのカーネーション、ガーベラ、そしてバラが並ぶ店先に、白いブラウスを着た女の後ろ姿。
白い半袖ブラウスに水色のストライプのスカート。黄色いエプロンの紐が腰の後ろでちょうちょ結びになっている。
その手前を、麦わら帽子を被った子供、その母親、サラリーマン風の男、制服の高校生が通り過ぎる。女は、後ろ姿のまま、カーネーションを抜き取り、かすみ草と合わせて、花束を作っていく。
誰かの話し声や足音や台車を動かす音、自転車のブレーキの音などが聞こえるが、傍らの客と話しているらしい女の声は聞こえない。
花屋から数メートル離れたところで、スニーカーの足が行ったり来たりしている。ジーンズの裾は擦り切れ、スニーカーもずいぶんくたびれている。
花屋の女が左手で持つ花束は少しずつ大きくなり、透明のフィルムでくるまれる。
誰かに呼ばれたふうに、女が振り返る。黒く艶のある髪は顎のあたりで切りそろえられ、濃い眉や真っ赤な口紅も相まって、後ろ姿から想像されるよりも気の強そうな印象を与える。
マリア! 男の声が響く。
女は、声の元を探すように左右を見たあと、こちらに向かって笑う。赤い花に囲まれたその顔は、人をひきつける美しさがある。
彼女は、ちょっと待っててね、と言い、生花店の奥へ入っていった。
店名とひまわりのイラストが描かれた黄色い庇のテント。この商店街で長年営んでいることが、黄色の褪せ具合や傷を修繕した跡からわかる。
店から出てきた女は、スカートからショートパンツに着替えている。細く白い脚に、真っ赤なサンダルが目立つ。
彼女は、商店街の角で待っていた男の名前を呼ぶと、突然、走り出す。商店街の人並みの間を軽やかに走り抜けていく女の後ろ姿、白い脚を、カメラが追う。それは、慌てて彼女を追いかける男が見ている光景だ。
しかし、彼女は私の母ではない。
リモコンの一時停止ボタンを押すと、彼女はこちらに笑顔を向けたまま静止している。笑うと幼く見える。
彼女は、私の母ではない。
駒子(こまこ)は、画面を見つめてもう一度はっきり言葉にしてそう思った。
再生ボタンを押すと、彼女はこちらに向かって手を振った。自分しかいない1DKの部屋で、駒子は手を小さく振り返してみた。
今度は停止ボタンを押す。ふー、と長く息をついた。
二六インチのテレビの画面には、さっきの彼女と二人の若い男が夜の街を走るサムネイルと、短いあらすじが表示されている。
駒子は、もう一度そのあらすじを読んだ後、電源を切り、風呂に入った。
* *
原田駒子に小松原大哉(だいや)から連絡があったのは、三日前のことだった。
出勤する電車の中で駒子がスマホを確かめると、〈こないだはどうもありがとうございました〉とメッセージが表示された。こないだっていつだっけ、と記憶をたぐってみたが、地元の同級生との飲み会で会ったのは昨年の正月だった。一年半以上経っててもこないだになるのかと思いながら、何行もあるメッセージを読んだ。最後に、もしよろしければ取材をお願いできませんか、と書いてあった。
なんだよ、敬語なんか使って、めんどくせえな、と返信するのはためらわれたので、とりあえず画面を閉じたのだった。車窓の外、ずっと先には完成間近のタワーマンションが見えた。大哉を含む同級生たちと会った地元は、その建設現場の近くだ。こんなとこにもタワマンが建つんだねえ、と言い合ったそのときはまだ高さは三分の二くらいだった。
今日も駒子は同じ時間の急行列車に乗り、ドアの近くに立っている。車窓の景色は過ぎていき、曇り空の遠くに見えるタワーマンションも少しずつ角度を変えていく。手に持ったままのスマホで、一昨日にようやく小松原大哉に返信した自分のメッセージを見た。
〈ちょっと考えます。〉
〈ありがとうございます!!!〉と、すでに了承を得たつもりの大哉のメッセージにはなにも返していないままだ。
十五分ほど乗った電車を降りて、駒子は、駅前ロータリーの向こうにある商店街へ入った。
見上げると、商店街の名前を示した看板の両側には大きな白い電球が三つぶら下がった街灯が立っている。こんな形だったか、と、この場所に通勤して二年が過ぎて初めて気がついた。
地元の商店街の街灯もこれに似た形だった気がする。少なくとも、昨夜見た映画みたいなすずらん形ではなかった。十年以上毎日歩いた商店街の街灯がどんな形をしていたか思い出せないとは、人間の記憶力なんていい加減なものだ。駒子は、それまで気に留めていなかったこの商店街の看板や街灯やそこに提げられているサッカーチームのバナーを、しばし見上げた。
午後一時前の商店街は、昼休みを終えてカレーや中華のチェーン店から出てくる人たちとスーパーに買い物に来た人たちの流れが交錯していて、駒子は彼らを避けながら歩いた。一つ目の角を曲がるとすぐに、勤め先の音楽教室が入るビルがある。「無料体験レッスン実施中!」と、先週駒子たちがイラスト入りで描いた黒板が入口脇に立てかけてある。
「おはようございまーす」
自動ドアが開くと、正面のカウンターから同僚の八木さんが妙に元気な声で言った。おはようございます、と返して、駒子はすぐにカウンターの端末に表示された今日の予約状況を確認しつつ、八木さんからキャンセルなどの報告を聞く。
駒子の勤務先は、東京近郊に展開する音楽教室で、この店舗に異動して来たのは一昨年のまだコロナ禍の制限が残る時期だった。そのときは教室や個別ブースにアクリル板があったし清掃も今より念入りにしなければならなかったが、営業開始時間が午前十時から十二時に変更になっていたのは、朝と混雑した電車が苦手な駒子には幸いだった。通勤時間も、一時間から三十分少々に短縮された。
前に勤務していた都心寄りの教室の受講者は、音楽関係の仕事を目指す若者と趣味として楽器のレッスンを受ける三十代以上の人がメインだったが、郊外の急行停車駅にあるこの教室では習い事として通う子供も多い。昼間のこの時間は、幼児向けのリトミック教室も人気がある。
とはいえ、都心に通う住宅地として発展したこの辺りでも子供の数は減っていて、教室ではリタイアした層に向けてのレッスンの宣伝に力を入れている。勤め帰りに通う人のために平日は夜九時まで営業しており、駒子は午後二時からの遅番の勤務がほとんどだ。
二年前に入社した八木さんは子供のころからピアノを習っていて、友人たちと音楽のユニット活動をやっているらしい。駒子自身は、音楽を聴くのは好きでギターやピアノを弾いてみたいと多少触ったことはあるが、結局弾けるようにはならなかった。業務は教室の運営なので楽器が弾けるかどうかは関係ないのだが、それなりに興味が持てることのほうが仕事もしやすいのではと思って、十年ほど前、三十歳のときにこの会社の採用試験を受けた。
「じゃ、お昼行ってきますねー」
「あ、新しくできたうどん屋さん行くんだっけ」
「です。レポートしますね」
休憩時間になる八木さんが、小さな手提げを持って出かけた。
カウンターにいると、ガラス越しに道行く人がよく見える。いつまで続くのだろうかとうんざりしていた暑さも、九月の半ばを過ぎてようやく落ち着いてきた。スーパーの袋を提げた人、子供用のシートがついた電動自転車で走り抜ける人、シルバーカーを押して歩く高齢者、制服姿の高校生たち。メインの通りではないものの、道行く人の姿は途切れない。歩く人たちの服装でその日の天気や気温を実感するし、日が暮れていくのもよくわかって、とにかく変化がある。
前の教室はビルの地下にあって入口のガラス扉の外には白い壁しか見えず、天気も時間もわからない勤務時間はなんとなく閉塞感があった。ここでは、急に激しい雨が降ってきて看板を片づけに出るのも、ドアが開く度に外の熱気や冷気が入ってくるのも、駒子にとっては身体の感覚がしゃっきりして好ましかった。
「ありがとね、また来週」
「お疲れさまでした。高田さん、どんどんうまくなってるから、次回もびっくりしちゃいそうだなあ」
ギターの講師をしているマイマイ長谷部(はせべ)が、レッスンが終わった高齢男性とブースから出てきた。受講者を見送ったあとも、ブースに戻らず周りをちらちら見ているなーと、駒子は長谷部の姿を視界の隅にとらえていた。次は予約入ってなかったっけ、とモニターで確認しようとしたとき、長谷部が近づいてきた。
「あのさ、ちらっと小耳に挟んだんだけど、でも個人情報だと思うから、原田さんがイヤだったら全然スルーしてもらっていいんだけど、全然、聞いてみるだけだから」
「なんですか」
駒子は、端末のキーボードに手を置いたまま長谷部を見た。
長めの髪に顎には無精髭、大きな黒縁眼鏡の長谷部はカウンターに手をつき、眼鏡の奥の目を輝かせている。九〇年代の終わりからベーシストをしていたバンドでそこそこ売れたそうで、駒子もそのバンドやマイマイ長谷部の名前もおぼろげには見覚えがあった。二〇〇〇年代半ばにバンドが活動休止した後は、別のバンドのサポートメンバーとして全国ツアーに参加したり、ご当地アイドルのプロデュースなんかもやっていたらしい。バンド時代から、ローカルグルメや昭和のテレビ番組のマニアックな話題を雑誌に書いたり深夜ラジオで話したりするほうがベーシストとしての活動より注目されていて、「マイマイ長谷部」の名前は元はライターとしてのペンネームだった。十年ほど前からは主夫として子育てや家事のことを書いたブログ日記も人気がある。というのは、この教室に勤務になったときに教室長だった人に聞いた。
どこかのブランドとコラボしたドラえもんのTシャツにジャケットを羽織って年齢より若く見えるが、確か先月五十五歳になったはずだ。
「えーっと、原田さんのお母さん、ザ・ラストサウンズのダイスケの元カノってほんと? つまり、リリーっていうか、マリアっていうか」
普段から愛想のいい長谷部だが、いっそう楽しげな表情である。
駒子は、予想外の名前を聞かされ、返答に戸惑った。二、三秒の沈黙を、長谷部のわざとらしく軽い声が消し去る。
「あー! すいませんすいません! だめだよね、今のご時世にこんな個人情報聞いちゃって。ハラスメントとか、しませんから、したくないですから。忘れてください」
忘れてもなにも、答えないのが答えって聞き方すんなよ、と駒子は脳内で毒づく。
誰ですかそれ、わからないんですけど、とすぐに返せなかったのは、前の夜に観た映画の場面がよぎってしまったからだろう。さらには、小松原大哉からのメッセージを読んであの映画をうっかり観ようとしてしまったせいだ。
「はい、忘れてください」
駒子はできるだけ素っ気なく言うが、長谷部の妙なはしゃぎようは止まらなかった。
「いや、ちょっとね、先月S教室でもレッスン担当してたじゃない? そのとき、中島麗子(れいこ)さんに会って」
あの人か。前の勤務地でたまにピアノレッスンを受け持っていた中島麗子の派手な顔立ちを、駒子は思い浮かべた。勤務を始めて一か月ほど経ったときに、事務所で顔を合わせた途端、中島麗子は、マリちゃんのお嬢ちゃん! と大声を上げたのだった。子供のころに何度か会ったのは、駒子もかすかに覚えていたが、三十年以上経ってるはずだ。中島麗子の記憶力が抜群なのか、駒子の顔が五歳くらいからたいして変化がないのか。だってマリちゃんに似てるもの、そっくり、と麗子は歌うような声で言った。駒子の母よりも年上のはずだが、肌も声も豊かな艶やかさがあった。
登録制の講師たちが担当するメインの教室は決まっているが、複数の教室で受け持つ人もいるし、人手が足りない教室の応援に入ることもある。S教室は少し前にギター講師が急に辞め、長谷部がしばらくそのあとを引き継いでいた。
「元カノではないです。ただの知り合いです」
と、駒子が長谷部に答えたのは、勝手な噂を振りまかれるよりもましだと考えたからだった。
「あー、やっぱり! ほんとだったんだ! 『駅前の天使』!」
「違います」
駒子の否定は耳に入らないようで、長谷部は興奮を抑えられないといった感じで身体を捻りながら、うわー、まじかー、と繰り返している。
「個人情報なんで、他の人に言わないでください。言ったら本部に報告しますから」
「はいはいはい、そうですよね、申し訳ない」
申し訳ないと繰り返しながら、長谷部は話し続けた。
「でも、おれ、ラストサウンズすごい好きなんですよ。特にダイスケさんのベースがかっこよかったからおれもベースをやったの。なんだかんだでギターがメインになったけど。エッセイも何回も読んだし、あの映画も公開当日に観に行ったんだよ。大学二年のときだったかな、渋谷の映画館に三回も行って」
「そうですか」
「知ってる? 『明日の世界』、ついこないだ配信で観られるようになったの。DVDとかもないから幻の作品状態だったのに。久々に観ましたよー」
「知ってます」
「あっ、そう? 三十年ぶりに観ても、かわいすぎてハートを撃ち抜かれちゃったよ、マリアちゃんに」
「私の母とは関係ないです」
事実、関係ない。駒子の母はあの映画の「マリア」ではないし、「かわいすぎる」と長谷部が言っているのは「マリア」を演じた当時二十一歳のミーコという歌手であり女優のことだ。
「そりゃそうだよねえ、あれはファンタジーっていうかさ、ま、夢みたいな話だとは思ってたよ。同じバンドのベーシストとドラマーを翻弄するエキセントリックな美少女……。お母さん、やっぱモテたの?」
「映画の中の話でしょ。中島さんもそう言わなかったですか?」
中島麗子にも他の人には言わないように伝えたのに、と駒子は腹立たしくなった。十五年ほど前までは高級クラブで演奏したりシャンソンを歌ったりもしていたという麗子は、どんな相手でもするっと近くに入れる技みたいなものを身につけている。長谷部に話した様子も目に浮かぶ。
「ああ、うんうんうん、言ってました。エッセイも映画も話を盛り過ぎぐらいに盛ってるわよ、当たり前じゃな~い、って」
長谷部は麗子の口調を真似た。駒子が黙ってじっと見ているので、長谷部もようやく自分の言動に客観的な視点が生じ、それまでのはしゃぎっぷりをごまかすように言った。
「まあ、今観ると、ちょっと、なんていうか記憶が美化されてたなって思ったけどね。こんなシーンあったかな、とかさ」
駒子の頭の中に、昨夜観た映画の場面がまたよぎる。「マリア」のメイクも服装もいかにも映画が作られた八〇年代終わりの雰囲気を感じさせるものだった。振り向きながら走っていく彼女の姿も、映画が撮影された時期との隔たりよりももっと遠い、奇妙な世界に思えた。
「ほんとに申し訳ないです、急におじさんの昔話を聞かせちゃって」
「そうですね」
「……もしかして、ダイスケさんに会ったことあるとか?」
「ないです」
うどんを食べた八木さんが帰ってきて、長谷部はようやく次のレッスンのブースに戻っていった。
「マイマイさんと、どなたかお知り合いなんですか?」
釜玉うどんがおいしかったと報告した後、さっきの話が聞こえていたらしい八木さんが駒子に聞いた。
「いや、S教室の先生のことでちょっと聞かれただけ」
母が「ザ・ラストサウンズ」やあの映画と関係があるのではと聞かれることは、中島麗子を除けば、十年以上なかった。駒子が高校や大学のころは、マイナーな映画や音楽にも興味のある同級生がどこからか知って、好奇心一杯の目で尋ねてくることがあった。そのミュージシャンや映画監督、出演していた俳優たちと駒子が会ったことがないしつながりもないとわかると、途端につまらなそうになり話がしぼんでいった。
それよりも前、地元の商店街、母の実家でもある生花店があった街に住んでいたころは、近所の人たちや同級生の母親たちがなにかにつけその名前や映画のことを会話の中に登場させていた。原田さんの奥さんは映画になるくらいの美人だから……、駒子ちゃんのお母さんは普通の人とは違うからねえ……。
「私、どうでもいいことでもなんか嘘ってつけないんですよね」
駒子がぼそっと言うと、八木さんはなんのことかと少し視線を漂わせたが、頷いた。
「あー、わかります。嘘ってめんどくさいじゃないですか? あとから辻褄合わせないといけないっていうか、自分のついた嘘覚えとくのに脳のリソースを使いたくないし」
「そんな感じ」
「こんにちはー」
エレクトーンのレッスンを受ける四歳の男の子と母親が入ってきた。男の子は元気いっぱいに、よろしくおねがいします、とカウンターに駆け寄ってきた。
教室に通ってくる子供たちは、高級品でなくてもセンスがよく小綺麗に整えられた服装で、挨拶もよくできる。付き添う母親たち、ときどきは父親たちは、時間と手をかけ、子供の将来のためにできるだけのことをやっているんです、という満足感のある表情をしている、と駒子には見える。
子供が大声で騒いでしまったりチラシのラックを倒してしまったりしても、親たちはしゃがんで目の高さを子供に合わせ、丁寧に言いきかせる。いまどきの光景だな、と駒子は思う。
続けて数組の親子が訪れ、十五時からのレッスンがいつも通りに始まった。
(この章続く)