中学の教頭の西田さんと親密に

松江の人口は4万程ございました。家康公の血を引いた直政※という方が参られまして、その何代か後に不昧公※と申す殿様がありましたが、そのために家中の好みが辺鄙に似合わず、風流になったと申します。

学校は中学と師範※の両方を兼ねていました。中学の教頭の西田(※)と申す方に大層お世話になりました。二人は互いに好き合って、非常に親密になりました。ヘルン(ハーン)は西田さんをまったく信用してほめていました。

「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません。私の悪いこと、皆いってくれます。本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」。

お気の毒なことには、この方はご病身で、始終苦しんでいらっしゃいました。「ただあの病気、いかに神様悪いですね――私、立腹」などといっていました。また「あのような善い人です。あのような病気参ります。ですから世界むごいです。なぜ悪き人に、悪き病気参りません」。東京に参りましても、この方の病気を大層気にしていました。

『小泉八雲のこわい話・思い出の記』(著:小泉八雲、小泉セツ(節子)/興陽館)

西田さんは、明治30年3月15日に亡くなられました。亡くなった後までも「今日途中で、西田さんの後姿見ました。私の車、急がせました。あの人、西田さんそっくりでした」などと話したことがあります。似ていたのでなつかしかったといっていました。早稲田大学に参りましたとき、高田さん(※)が、どこか西田さんに似ているといって、大層喜んでいました。

このときの知事は籠手田さん(※)でした。熱心な国粋保存家ということでした。ゆったりしたお大名のような方で、撃剣がお上手でした。このときにはいろいろと武士道の嗜みとも申すべき物が復興されまして、撃剣とか鎗とかの試合だの、昔風の競馬だのおこなわれまして、士族の老人などは昔を思い出すといって、喜んでいました。この籠手田さんからも、大層優待されまして、すべてこんな会へは第一に招待されました。

※西田さん=島根県尋常中学校の教頭であった西田千太郎のこと。
高田さん=早稲田大学の初代学長である高田早苗のこと。
籠手田さん=当時の島根県知事であった籠手田安定のこと。

※興陽館編集部注
直政=家康の孫で、出雲松江藩主であった松平直政のこと。
不昧公=直政から6代後の松江藩主であった松平治郷(はるさと)のことで、不昧は号。松江藩の財政改革に成功する一方、趣味の茶の湯に没頭し松江を文化都市とした茶人大名として知られる。
師範=師範学校のこと。