夫婦二人で盆踊りを見に行った
明治24年の夏休みに、西田さん(※)と杵築の大社へ参詣いたしました。ついた翌日、私にもすぐ来てくれと手紙をくれましたので、その宿に参りますと、両人とも海に行って留守でした。
お金は靴足袋に入れてほうり出してありまして、銀貨や紙幣がこぼれ出ているのです。ヘルン(ハーン)は性来、金には無頓着なほうで、それはそれはおかしいようでした。勘定なども下手でした。そのような俗才は持ちませんでした。ただ、子どもができたり、自分の体が弱くなったことに気がついたりしてから、遺族のことを心配し始めました。
大社の宮司は西田さんの知人でありまして、ヘルン(ハーン)の日本好きのことを聞いていますから、大層優待してくださいました。盆踊りが見たいと話しますと、季節よりも少し早かったのでしたが、わざわざ何百人という人を集めて踊りを始めてくださいました。その人々も皆大満足で盆踊りをしてくれました。もっとも、この踊りはあまり陽気で、盆踊りではない、豊年踊りだとヘルン(ハーン)が申しました。
この旅行のとき、ヘルン(ハーン)が『君が代』を教わりまして、私ども三人でよく歌いました。子どものように無邪気なところがありました。
2週間ばかりの後、松江に帰り、盆踊りの季節に近づいたので、ヘルン(ハーン)と私と二人で案内者も連れないで、伯耆の下市に盆踊りを見に参りました。西田さんは京都へ旅をいたされました。私どもただ二人で長旅をいたしたのはこれがはじめてでした。
下市へ参りまして、昨年の丁度今頃赴任のとき泊まりました宿屋をたずねて、踊りのことを聞きますと「あの、今年は警察から、そんなことは止めよ、といって差し止められました」とのことで、ヘルンは失望して、不興でした。「駄目の警察です。日本の古い、面白い習慣をこわします。皆、耶蘇※ためです。日本の物こわして西洋の物真似するばかりです」といって大不平でした。
※小泉八雲が勤めていた島根県尋常中学校の教頭であった西田千太郎のこと。
※興陽館編集部注
耶蘇=イエス・キリスト、キリスト教のこと。