自分のせいで、と絶望感に襲われた

子宮内膜症の進行は、エストロゲン・黄体ホルモンの量を抑える薬で弱めることができます。ところが女性ホルモンを減らすことで、高音で歌い上げることができなくなってしまった。要は治療を続ければ、今までのように歌えないということです。

さて、どうしようか? 悩ましい問題に直面すると、私はいつもいったん悩みを置いて遊びに出かけます。あのときは、海を見に茅ヶ崎へ。綺麗な夕陽を眺めているうちに、フッと答えが降りてきました。「今はホルモン治療を中断しよう」。そして時期が来たら再開し、そのときの日本の医学の進歩に懸けてみよう、と。

第一、ライブのチケットは完売していたし、デビュー時からお世話になっている方々が社運を懸ける勢いで後押ししてくれていました。私の性格上、お客さんとスタッフ総勢5万人のガッカリを背負ったまま、笑って生きていくことなどできませんから。とはいえ、ホルモン治療をやめても声が戻るまでに3ヵ月かかるといわれていました。実はリハーサルのときもまだ本調子ではなかったのですが、本番には理想の声が出て、“ミラクル”が起きたのでした。

その後も、漢方薬や鎮痛剤などを駆使し、だましだまし全国ツアーを行いました。2000年頃に念願の新しい治療薬が出て一時的に快復しましたが、ツアーが始まって投薬を中断するとまた症状は悪化する。その繰り返しだったのです。ステージで踏ん張り切れないときは、酷評もされました。「私の何がわかるの!?」と思っても、お客さんに言い訳はできません。常に痛みをかばいながら、それでも全力で歌ってきました。

34歳のときに結婚し、それから始めた不妊治療がさらに事態を複雑にしました。不妊治療では、受精卵が着床しやすい子宮内膜に整えるために、エストロゲンを補充します。しかし腺筋症はエストロゲンが餌。つまり不妊治療の影響で子宮が肥大化してしまうのです。

そこで、まずは3~4ヵ月ほど不妊治療に専念。そして不妊治療で大きくなった子宮をまた小さくするためにホルモン値を下げる薬を約半年投与し、そのときは歌うよりも曲作りをする……というやりくりをしていました。

でも42歳のとき、病気の勢いが激しくなって、子宮内膜症、子宮筋腫、子宮腺筋症、左卵巣腫という“バリューセット”になってしまったんです。それぞれの疾患が炎症を起こして40度近い尿が出ることもあったし、うずくまるほどの激しい痛みにたびたび襲われました。そしてついに医師から、「悪い部分を切除しましょう」と最終通告を受けたのです。

このときは悔しかったです。でも命には代えられない。治療に専念するには、音楽活動を休止するしかありませんでした。

それでも不妊治療を諦めたくないということは、医師に伝えました。子どもが産めないかもしれない私を受け入れてくれた夫のことを考えると、最後の1%の可能性に懸けてみたかった。子宮を温存するという条件のもと、腺筋症以外の疾患を切除する手術を受けたのは、11年5月のことです。

その後も不妊治療は続けましたが、気がつけば40代半ば。限界に近い自分の体に、潮時を悟りました。受精卵はすごく元気ないい子たちなのに、次々と流産してしまう。それは子宮腺筋症のために受精卵が着床しにくいからでした。

「自分のせいでこの子たちが生きられない」。そんな絶望感のなかで、受精卵が着床するためのフカフカのベッドさえあれば、自分の体でなくともよいのでは、という思いまで抱くようになりました。

そしてアメリカでの凍結受精卵による代理母出産に望みをつなぎ、15年に子宮全摘手術に踏み切ったのです。

17年の秋、12個あった受精卵の最後の1個がなくなってしまったときは、嗚咽するほどの挫折感、絶望感に打ちひしがれましたが、LAの乾いた風に抱かれて自ら「終了!」しました。

どの道を選ぶかを自分で決めれば、「諦め」も「終えた」と言える。終わらせなければ、次は始まらないのです。子宮疾患に翻弄されたのは不可抗力でも、病を放置した自分の責任だと思うことで、「ならば仕方がない」と前へ進むことができたのだと思います。