なんとしても子宮を守りたくて
1992年に23歳で歌手デビューしてから50歳になった今日まで、あれもこれもが節目のような目まぐるしい人生でした。嬉しい出会いや出来事がある一方で、自分の病気、親の介護、パートナーとの別れといったシナリオも用意されていて。
なかでも子宮腺筋症などの治療のため2010年に無期限活動休止を発表したときは、断腸の思いでした。今だから「人生の大きな節目だった」と言えますが、渦中にいるときは、これで“歌手・大黒摩季”は終わってしまうという恐怖に苛まれ、崖っぷちに立たされていたのです。
今にして思えば、私は10代から生理が重かった。デビューする頃には、生理中の不調のほか、排卵期に心が不安定になったり、声が出づらくなったり。お腹の底から発声するためには姿勢を正す必要がありますが、生理中は腰痛がひどくてまっすぐに立てませんでした。
なんとかしなければと焦りを募らせたのは、97年の8月にレインボースクエア有明での初ライブを控えていたから。私はデビュー以来、テレビ出演やライブ活動を一切行っていませんでした。満を持して開催するライブだからこそ、万全な体調で臨みたかった。そこで生まれて初めて、婦人科を受診することにしたのです。
検査の結果、子宮内膜症と子宮筋腫、子宮腺筋症を併発していることが判明。骨盤内で腫れあがった子宮が他の臓器を圧迫している状態で、医師からは「放置すると子宮の全摘手術しか治療法がなくなる」と告げられました。「それは妊娠できなくなることを意味します」と。
当時27歳だった私は、まだ未来の配偶者と出会っていませんでしたが、子どもが大好きなので「なんとしても子宮を守らなければ」と思い、すぐにホルモン治療を始めました。しかし、一筋縄ではいかなかった。そればかりか、自分の人生が順風満帆ではないことを思い知らされました。なぜならホルモン治療を続けたことで、将来を左右する選択を迫られることになったからです。