任地に行かず都に残る国司たちも
中世の日本には、成功と書いて「じょうごう」と読む制度がありました。もともとは、律令政治が行われた古代、寺院建立などの公共事業に私財を投じてくれた人を、朝廷が官職に任命することを指した言葉です。
その後ますます財政難に陥った朝廷は、名誉のための官位だけでなく、「国司」のような利権のからむポストも売りに出すようになります。
国司は、現在の都道府県知事にあたる官職。戸籍の作成や裁判など地方行政を幅広く担い、いちばんの旨みといえるのが租税の徴収です。国司のさらに上の地位である国主になると、土地の民から集めた税をまとめて朝廷へ送る際、総収入から一定額を送ればよかったため、多めに税を集めて余剰を自分の懐に入れることができました。
国司は本来任国の役所で働くべきものですが、「都を離れたくない」という理由から代理人を現地に派遣することも横行。任地によっては土地の開発が進まず税金が取れなかったり、下役人の力が強くて徴税に協力してくれなかったりなどの問題があり、それを都にいる国司に報告するのも代理人の大事な仕事の一つだったのです。
歌人として名高い藤原定家は、「信濃守(しなののかみ)(現在の長野県)の国司の職を買わないか」と打診されたことがありました。しかし代理人となる家来を先に派遣して調べたところ、「下役人が強くて余剰金は取れなそうだ」という報告を受け、買うのをやめたという記録が。
そんな国司のポストは、いったいいくらで買えたのか。史料で確認できる最も高額な例として、鎌倉時代の1264年に三河国(現在の愛知県東部)の国司を3600貫で買った人がいたことがわかっています。現代のお金に換算すると約3億6000万円。3億円払っても、稼げる国の国司になれば、十分に元は取れたということなのでしょう。
