「聞いてないよォ」「くるりんぱ」「どうぞ、どうぞ」――。数々のギャグを流行らせてきたダチョウ倶楽部。リーダー・肥後克広さん(62)の初の人生論『頼る力』(小学館新書)では、これまでの芸能生活を振り返り、ダチョウ倶楽部のメンバーで2022年に亡くなった上島竜兵さんへの思いとこれからのダチョウ倶楽部についてつづっている。肥後さんにお話を伺った。(取材・文:婦人公論.jp編集部 油原聡子 撮影:本社・奥西義和)
ずるずる続けてきたら…
沖縄で生まれ育ちました。高校卒業後、東京のデザイン会社に1年務めた後、沖縄に戻ったんですが、芸人になりたくて、再び上京しました。コメディアンの杉兵助さんに弟子入りして。コント55号やドリフターズのような芸人になりたいなあと思っていたんです。でも、その時代に沖縄で芸人をやっている人もいなかったから、とりあえず上京して浅草で芸人ぽいことをやって終わろうという感じでした。
ダチョウ倶楽部結成は1985年。きっかけは渡辺正行さんが企画したお笑いライブでした。出演の約束をすっかり忘れていたときに渡辺さんとばったり会ってライブの話をされたんです。慌てて集めたメンバーが、上島竜兵、寺門ジモン、南部寅太(のちに南部虎弾に改名)。連絡がついた人でコントの大会に出たというのがダチョウ倶楽部の出発点。だからずるずるやってきました。
その後、南部さんが1987年に脱退しても、そのまま3人で活動してきた。そんなに思い入れもなかったし、力も入ってなかったんです。僕がリーダーなのは3人のなかでいちばん背が高いから。周りの2人から見て「リーダー」って言われているとわかりやすいんですよ。
デビューしたての頃はちょうどお笑い第3世代のブーム。芸人はみんな「目指せとんねるず!」「冠番組を持ちたい」と言っていた。でもダチョウ倶楽部は「僕らの夢は現状維持です」と言い続けたんです。これは「若いのに夢がないね、デビューしたばかりなのに」という意味を込めたギャグのつもりでしたが、「現状維持」と言い続けたら、本当にそうなってしまった。本音では「冠番組を持ちたい」とかあったんですけれどね。