人生は思い通りにならないことで溢れている
テレビの取材でロンドンへ向かっていた飛行機が、ヒースロー空港の滑走路に着陸しかけたタイミングで突然急上昇をし、乗客をひやっとさせたことがあった。ハリケーンの影響でヒースローへの着陸は不可能となり、ドイツのミュンヘンへ向かうことになったというアナウンスが機内に流れると、ショックで思わず泣き出す女性もいた。
ミュンヘン空港はヒースローに着陸できなかった何本ものフライトがいっぺんに集結し、空港内は困惑する乗客たちで溢れかえった。下手をすると空港で寝泊まりせねばならぬ事態の中、我々撮影隊は粛々とフライトの変更手続きをし、何時間も待機を強いられつつも最終的には目的地への到着を果たすことができた。こういう事態に慣れているのか、クルーの誰一人として慌てる様子もなかったことに、私はちょっとした感動を覚えた。
人間というのは、自分たちの行動にある程度の予定や予測を立て、なるべくならその通りに生きていきたいと考える生き物である。人との付き合いに関しても、どんな社会や宗教の倫理や法においても正直であることは基本原則であり、普段とは違う意外な自分の側面を見せることは、場合によっては裏切りと捉えられ、大ごとになる。
例えば不倫がタブーとされるのは、「家族という絆は、好き嫌いに関係なくいったん一緒になったらその状態をいつまでも保つべし」という社会的契約を破る行為だからだ。芸能人などの場合、外野が不必要に大騒ぎをするのも、「自分たちはこういう人間」というフォーマットを視聴者やファンによって、親しみを込めて象(かたど)られる商売だと思えば致し方ない。ただやはり芸能人も人間である限りは、こうした予測不可能なことはいくらでも起こりうると、我々はメディアを通じて思い知らされる。
親と子の間で発生する軋轢も、結局は親の子に対する一方的な思い込みが元凶になっている場合が多い。学校でいじめにあった子供が家族にそれをすぐに打ち明けられないのも、親から「なぜあなたがいじめなんかにあうの」と、悲観されたり責められたりするのが怖いからだ。同じように、子供も「親であるならふつうはこうあるべき」という思い込みには気をつけたほうがいいかもしれない。野生動物には、自分を育ててくれた親からいきなり突き放される瞬間がくるように、親子のあり方という形も崩れてしまう可能性があることを、私たち人間はもっと覚悟しておくべきなのだ。私は母が認知症の兆候を見せた時、あの知性と教養の塊のようだった人がこんなことになるなんてありえない!とその顛末を受けいれられず「お母さんどうしたの、しっかりしてよ!」と何度も彼女を責めたことがあり、今はそれを深く反省している。
今回のテレビ取材のテーマであるレオナルド・ダ・ヴィンチも、その当時の社会で「定型」とされていた宗教画を描かなかったり、契約を無視したり、途中で作業をやめてしまう自由奔放さゆえに散々なバッシングにあってえらい苦労をした人だが、それがやがて彼が天才と称されるようになる所以となる。
人間の人生は思い通りにならないことだらけだが、どんな顚末になっても、人間である以上それも十分起こりうることだという理解と諦観に繫げていければ、我々はもっと楽に生きていけるようになるのかもしれない。そんなことを考えながら、着彩の手法を間違ったせいで壁のシミのようになってしまった何世紀も後に、根気のいる修復で美しく蘇った規格外の傑作「最後の晩餐」をしみじみと眺めたのだった。