絵の中の人間模様
昨年12月、東京都美術館へ「コートールド美術館展 魅惑の印象派」を見に行ってきた。
朝いちばんで乗り込んだものの、休日だからだろうか、館内はそこそこ混んでいた。来場者の半分くらいは高齢者だ。平日に来ればいいのにと思ったが、このご時世、月曜から金曜まで働いている人も少なくないのだろう。館内の年齢構成比は、まるで未来の日本を見ているようだった。
エドゥアール・マネの「フォリー=ベルジェールのバー」や「草上の昼食」、ポール・ゴーガンの「ネヴァーモア」、エドガー・ドガの「舞台上の二人の踊り子」など、私のような美術門外漢でもどこかで見たことのある絵画が多く、解説も丁寧で楽しめた。特に、マネの「フォリー=ベルジェールのバー」は、鑑賞初心者にぴったりの作品だった。
フォリー=ベルジェールは、パリのミュージックホール。中央に描かれた、美しいバーメイドの表情は虚ろだ。彼女の後ろには壁一面の鏡。ホールは満席だとわかる。絵の左上にはバレリーナのような足が宙ぶらりんで描かれており、これは当時、ミュージックホールで空中ブランコなどの曲芸が披露されていたことを表している。
右手には、鏡に映し出された紳士の姿。バーメイドと会話を交わしているようだが、鏡の手前に男の姿はない。鏡に映ったバーメイドの体の傾きと、中央に描かれたバーメイドの立ち姿も一致しない。初めて展示された当時から、批評家を困惑させた作品らしい。
解釈の仕方は人それぞれながら、不可思議な点が存在するからこそ、私はこの作品とはいつまでも会話していられると思った。
私の見立てはこうだ。紳士と話はしているが、バーメイドは心ここにあらず。心の目に紳士は映っていない。あーめんどくさい。だるい。早く帰りたいな。私はバーメイドに話しかける。ねえ、いつからここで働いてるの?その男にうんざりしてるんじゃない?
フォリー=ベルジェールのバーメイドは、娼婦でもあったそうだ。パリを舞台にした絵画には、高級娼婦が描かれたものも多い。華のある、気だるく美しい女たち。美女と言えば、ピエール=オーギュスト・ルノワールの「桟敷席」も良かった。白と黒のストライプドレスを着た女は、ルノワールお気に入りの女性がモデル。
当時、女性のファッションをチェックするなら劇場の桟敷席と言われていたそうで、彼女の後ろには、明らかに舞台以外のどこかをオペラグラスで覗いて見ている男が座っている。女も、舞台を観ているようには見えない。どちらかと言えば、自分を観客に「見せて」いる表情。桟敷席は舞台を観る場ではなく、他者を見たり他者に見せたりの装置でしかないことを揶揄しているようだ。
なんだか、ちょっと笑ってしまった。いまに始まったことではないってことだ。現代でも、パリコレのフロントロウ(ファッションショーの最前列席)は、誰が誰と、どんな服を着て座っているかを見るための場でしかない。華やかな場は、自己と他者からの承認欲求を満たす目的で設けられるのだ。
私は、それを恥ずべきこととは思わない。人間らしいなぁと思う。
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年齢を重ねただけで、誰もがしなやかな大人の女になれるわけじゃない。思ってた未来とは違うけど、これはこれで、いい感じ。「私の私による私のためのオバさん宣言」「ありもの恨み」……疲れた心にじんわりしみるエッセイ66篇