誰も考えつかないようなギャグを考え出そうと
私がデビューしたのは1969年の3月で、その年の10月から『8時だョ!全員集合』がTBSで始まりました。歌謡曲の全盛期でしたが、歌い手は歌だけ歌っていればいいというものでもなく、テレビという媒体を活用してどう伸びていくかが試される時代。歌以外の一面を見せることができる人が求められ、歌手にもゲストとして声がかかりました。水前寺清子さん、小川知子さん、いしだあゆみさん、私……。『全員集合』に呼んでいただき、私はコメディエンヌとしても一歩を踏み出したので、ザ・ドリフターズとは、同期で一緒に育った仲間でもあるのです。
当時、志村さんは、いかりや長介さんたちの付き人で、それから5年ほどして、「見習い」を経て、正式にドリフのメンバーになりました。他にもあと二人くらい候補生がいたので、そこから勝ち残っていかなければならない志村さんは大変だったと思います。サロペットのような胸当てのついたジーンズを着て、そのポケットの中には、いかりやさんが吸うタバコやライター、鏡を入れ、手にはティッシュや手ぬぐいの入った岡持ちを下げ、呼ばれたらすぐに飛んでいけるように、常に緊張した面持ちで身構えていました。
今はお笑いの皆さんも、学校へ行ってプロになることが多いですが、あの頃はそんなシステムはありませんから、ドリフのメンバーがやるのを間近で見て、そこから芸を吸収するという教え方。「しごき方」と言ってもいいかもしれません。
休憩時間にホールの客席で待機していると、いかりやさんが「おい」と志村さんに声をかける。用事があって呼ぶわけですが、ただ「はい」と返事をしてやって来るのでは面白くない。そこで志村さんは、必ず自分が考えたギャグをやる。奇声を発するようなこともあれば、ひとことネタを言うだけのときもありました。面白いとみんなが笑うのですが、面白くないといかりやさんの「だめだ」で終わってしまうのです。
一方、志村さんの芸に取り組むスタンスを見ていると、あれじゃ疲れるだろうな、と思うほどでした。いつもエキセントリックな感じで、正気と狂気の間を行ったり来たりしながら、誰も考えつかないようなギャグを考え出そうとしている。孤独で厳しい作業だったでしょう。