出発するときはさわやかに笑って

マンションの掃除をすべてすませてから5階の自宅に戻り、一人ご飯を食べた。今日は忙しい一日になりそうだ。

仏壇にお茶を供えて、線香に火をつけた。白檀は連れ合いが好きだった香り。新居に持っていく小さな位牌は、手元に用意している。線香が燃え尽きるのを待ちながら、少しだけ泣いた。

引っ越しのトラックが何台か着いたようで、「オーライ、オーライ」と、停車位置を確認する元気な声が5階まで上がってきた。

「それじゃ、パパ、行きますね。長い間、ありがとうございました」

遺影に手を合わせてから立ち上がった時、

「おはようございます」

運送会社の若いスタッフたちが、勢いよく玄関から入ってきて、にわかに慌ただしくなった。

使い慣れた家具や食器の詰まった段ボール箱が手際よくトラックに積み込まれていく。これらの道具は今ではすっかり古びてしまっているが、これから私が住む部屋に収まって、家族とにぎやかに暮らした温かな日々を思い起こさせてくれるに違いない。

若いスタッフたちは、無駄なくキビキビとよく動き、山のように積んでいた荷物をたちまち運び出した。そして、チーフが大声を上げた。

「お客さん、これで積み込み作業は終了です。何か積み残したものはないですか」

ある、と私は胸で呟いた。大事な、大事なものがたくさんある。

それは、このマンションの部屋に住む住人たち。キムさん、グレース、盧さん、ここで出会って結婚した安村さん夫妻、一度引きこもりになって職場を辞め、また元気になって復職した岡君。パートナーに裏切られて薬を飲み、救急車で運ばれた遠藤さん。

姑が植えたシャラの木は初夏に、小さな落花でその存在を知らせてくれる。ツルバラを絡ませた白いアーチ、連れ合いがペンキを塗ったグリーンの重い木のベンチ。

まだあった。

庭仕事を頼んでいたシルバー人材センターの足立さん。時々愚痴を聞いてもらっていたお向かいの節子さん。93歳で一人暮らしをするお隣の敏子さん。手作りのキムチを届けてくれていた朴さん。資源ごみのカンだけを回収に来ていた、名前を名乗らないホームレスのお兄さん。夜中に連れ合いがトイレで倒れた時、電話一本で駆けつけてくれた町会長の吉田さん。

誰もかれも、温かく優しい人たちだ。

私が何より好きだったものたちだが、一緒に連れて行くわけにはいかない。これらのものをすべて収めるには私の新居は狭すぎる。誰にも別れの挨拶はしていない。「さよなら」と、言葉に出したが最後、胸が張り裂けてしまうだろう。

「オーケーよ」

私はチーフに返事した。

「積み残したものは何もないわ。どうぞ、出発して」

慣れ親しんだ部屋に、きちんと鍵を掛けた。エレベーターには乗らないで、外階段を一段ずつゆっくり降りて、エントランスに出た。ポストボックスに部屋の鍵を入れて、暗証番号のダイヤルを回して閉じた。長男がのちほど、取りに来る約束だった。

戸外に出て、建物を見上げた。

連れ合いと三十余年守ってきた住まいだった。良い思い出も、つらい思い出も両方ある。今はその一つひとつのことを思い出すのはやめよう。最後はさわやかに笑って出発しようと決めていた。

建物の名を彫り込んであるプレートを軽く撫でてから一礼した。

「再見」

新しい生活に向かって一歩を踏み出した。

≪電話口の筆者≫

「夫を亡くしたり、子どもと疎遠になったり、同じような境遇の方もいらっしゃると思いますが、これを読んで少しでも元気になっていただけたら。70代半ばの私でも新たなスタートを切れたんですもの」という明るい言葉が印象的だった朝倉さん。朝倉さんの夫は代々の資産家で、結婚当初から「夫は会社員として働き、妻は先祖代々の不動産を管理する」のが決まりでした。現在は、地域のタウン誌で記事を書いているそう。「文章が情緒的すぎると指摘されることもあるのですが(笑)」と、充実している様子でした。

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