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読者が自らの体験を綴る、『婦人公論』の恒例企画「読者ノンフィクション」。2019年も、100篇を超す投稿のなかから、編集部が選んだ作品を紹介します。本日は、15年にわたる遠距離介護を経験した逢坂啓子さん(仮名)の手記です。一人暮らしの母が認知症に。介護を通して見えたこと、そして母が最期に教えてくれたこととは……

八王子─尾道間の往復生活は

「お母さん、もうすぐ楽になるからね。やっと、お父さんのところへ行けるよ」と、痩せ衰え、血の気を失った母に語りかけたのは、平成30年1月のことだった。

それ以来、私は心のどこかで弔辞を一日も早く読み上げたいと願い、日々過ごしてきた。これだけ書くと、何と惨たらしい娘と思われるかもしれないが、私はここにあえて「死にたくても死ねない悲しい現実」があることを伝えたい。

母の闘病生活はあまりにも長い。平成19年5月、「アルツハイマー型認知症」の診断を受ける。母76歳。同時に「要介護1」の認定がおりる。その頃の母の身体にはまだ十分過ぎるくらい余力があった。白内障や変形性膝関節症を患ってはいたが、自宅での一人暮らしがまだ可能であり、他人の悪口を並べることによって生き生きしていた。

しかし、近所とのトラブルがあり、もうこれ以上迷惑をかけられないと判断。嫌がる母を連れてやむなく心療内科を受診したところ、認知症と判明した。

母は25歳のとき、瀬戸内のとあるお寺に嫁いで以来、長い間そのお寺を守ってきた人である。父は平成15年12月に急逝。母は父という大きくわがままな存在を失って、明らかに自分の居場所もなくしてしまったようだ。「お寺の奥さん、元校長先生の奥さん」というのが母を支えるプライドだった。

今振り返ると、認知症の診断が下ったときから、介護施設入所までの3年間が、一番大変だった。24時間、昼夜問わず鳴る電話で告げられるのは、荒唐無稽な物語。例えば「鞄を取られた」、「通帳がない」、果ては「お寺の住職の息子が家に入って来て、冷蔵庫の中を開けた」まで。

この間、私は毎週のように東京の八王子と広島県の尾道の間を往復した。母の妄想に付き合うため、あるいは白内障の手術に付き添うため、母の代わりに葬儀に参列するため。新横浜駅10時29分発の「のぞみ25号」に乗車することが、習慣化してしまう。新幹線は私にとっていつしか楽しい乗り物ではなくなっていた。

いつまでこの生活が続くのかと、車窓に映る富士山を見ながら、何度思ったことだろう。この時期、私の娘は私立中学校に通学していたが、いろいろなメニューを提供する学食があったので、本当に助かった。カレーやシチューを作り置きしていたことは覚えている。しかし、夏場はそれも長期間保存できないし、娘は高校受験を控え、料理をする時間的余裕がなかった。

この3年間、留守の間、家族が夕食に何を食べていたかは詳しく覚えていない。ただ新横浜から新幹線に飛び乗り、時速250キロの世界最高技術に身を委ねて2府8県を移動していたことだけは覚えている。