平成22年6月、特別養護老人ホームの空きを待ちながら、デイケアに通っていた心療内科の特設する施設に入所。私は大きな白い布に「高橋幸子」と油性ペンで記し、母の衣類に縫いつけた。「母は徐々に幼児に帰っていくのだ」と自分に言い聞かせる。涙がひたひたと流れた。母にとって、屈辱的な行為である。しかし自立した生活ができない以上、離れて暮らす者としては、施設に預けるしかない。
この頃母は、長年痛めていた膝が悪化して、一人歩行が徐々に難しくなり、認知症も一段と進行。言語能力はまだあったが、意思疎通に支障が出始める。新しく記憶することはまったくできなくなった。要介護2。
要介護度が上がり一時は危篤状態に
平成23年6月、特養に入所。要介護3。手引き歩行で、やっと歩ける状態。トイレは要介助で、母は尿意を感じていることを自慢していた。「私は大丈夫。トイレは自分でやっているのよ」と。
食事は大きな涎掛けをして、かなりこぼしながらも何とか自力で箸を使って食べていた。入所当時、環境の変化からか、夜間に奇声を頻繁に発することも。
平成24年1月、左大腿骨骨折。隣接する病院に3週間入院。手術を受ける。病院はあくまでも治療の場で、介護の場ではないという教訓を得る。認知症の患者は歓迎されない重い空気を味わいながら、手術の前後10日あまり病室に付き添ったが、母本人は負傷したことを覚えていない。リハビリにもまったく意欲がなく、骨折により認知症はさらに進む。完全に車椅子生活になる。
同年2月、要介護4。骨折により身体能力はもちろんのこと、気持ちも萎え、食事も一部介助になる。声がけで食事を摂るが、箸が使えず、スプーンに替える。トイレは全面介助で、お漏らしも頻繁になり、パンツの中にパッドが入れられる。日中でもうとうとと眠っている時間が増え、常に傾眠状態であった。
平成27年5月、要介護5。トイレも食事も全面介助となる。この頃から固形物を受けつけなくなり介護食に替わる。ご飯も五分粥が提供される。あれほど忌み嫌っていたオムツをあてられ、娘のこともわからなくなる。「どこかの親切な人」程度の認識である。夫のことも覚えていない。
言語能力も2歳児くらいまで低下し、発する言葉は基本用語のみ。こちらの問いかけには反応するが、本人からの発信はない。ただ驚くことに、要介護5になっても、瀬戸内のお寺のことだけは鮮明に記憶に残っていた。ずっとお寺に仕え、守ってきたという自負心、矜持だけは見上げたものだった。