そのころの私たち姉妹にとって、母は「怖い」存在だった。口を開けば小言ばかりで褒められたことは一切なかったし、母の口癖は「テストでいい点を取っても、人には自慢するな」で、そのせいか、私たちは異常なまでに自己肯定感が低かった。たまに人から褒められても、どう反応していいのかがわからないのだ。
だが、病室で付き添ってくれた母は、頭を打った私が吐き気がすると夜中に訴えれば、すぐ目を覚まして「どうした、しんどいんか?」と看護師さんを呼んでくれた。2ヵ月の入院生活は、母の愛情や優しさを感じられる幸せなひとときだった。
地元の企業に就職して働き始めたころ、よく当たると評判の占い師にみてもらったことがある。すると、「あなたは実家との縁が強いですね。特に、お父さんはあなたのことをとても気にかけています」と言う。そのときは特に気に留めていなかったのだが、のちにその言葉の意味がわかることになった。
私は36歳のとき同僚と遅い結婚をして、娘を産んだ。だが、産後2ヵ月が経ったころから気持ちがふさぐことが増え、産後うつになってしまう。何をする気力も失い、毎日が暗闇の中にいるようだ。だが、夫は「さぼっている」「なんでできないんだ」などと責め立ててくる。症状はどんどんひどくなっていった。
うつ状態の私を支えきれなくなった夫は、自分の母親に助けを求めた。わが家からは父が出てきて、双方の家で「お宅のせいだ!」と売り言葉に買い言葉の喧嘩となり、夫婦仲はますますこじれていく。私は娘を連れて、逃げるように実家へ帰った。
結婚するまではわからなかったのだ。顔合わせをしたときには「いいご家族だな」と思ったし、弟が亡くなった事情を話すと、義母となる人は「大変な経験をされたのね」と涙までこぼしてくれた。だが実際は、夫もその両親も、他人への情が驚くほど薄い。
決定的だったのは、義母の放った一言である。実家に戻った私に対して、「将来自分の面倒をみてくれないと困る」と言ったのだ。いったん価値観のずれを認識してしまうと、もう修復しようという気も起きなかった。
うつとの闘い、育児で手一杯なところに、さらに離婚調停が加わった。姉たちの助けを借りて臨んだ調停では、夫側は財産分与のことばかり言い立てて、娘の親権についてはいっさいふれなかった。
妊娠中に、切迫早産の危険で入院した私を見舞いに来た義母が、「女の子なのね……」とがっかりした顔を見せたことがある。夫は田舎の農家の跡取り息子だから、どうしても男の子がほしかったのだろう。そのときは申し訳ない思いだったが、女の子でよかった。男の子だったら親権を奪われてしまっていただろう。
調停は長引かず、私の離婚は成立し、再び親の名字に戻ることになった。