「お互いに涙もなく、「感動の再会」からはほど遠い。2年半も会っていなかったことが噓のような、いつも通りの会話だった」

治療に専念するため、娘と別れて

半年ほど経ち、状態が落ち着いてきたある日、担当医師から、「退院して自宅に戻っても、しばらく娘さんとは離れて暮らすのがいいでしょう。高校生になって、身の回りのことが一人でできるくらいになるまで」と提案された。まずはあなた自身の生活を立て直し、社会復帰を目指すように、と。

私の入院後、娘は妹の家で預かってもらっていたのだが、妹の子からいじめられたり、待遇に差をつけられたりしてつらい思いをしたそうだ。妹からも「もう預かれない」と言われたため、娘が中学2年生の1学期のとき、児童相談所を介して児童養護施設の中の学園に転入した。

それからは、娘に電話をかけることも手紙を出すこともしなかった。母親失格と言われようが、当時の私には、とてもその余裕がなかったのだ。たまに姉が施設へ面会に行き、その足で私の家へ立ち寄って様子を教えてくれた。いい先生に恵まれていること、友だちもできて楽しそうに生活していると聞いたときは、ホッとした。

その後、治療に専念したかいがあって、昨年の4月、ようやく職場復帰を果たせた。そして、今年の春。私は2年半ぶりに娘の顔を見た。施設の面会室で、先生や児童相談所の職員が見守るなか、娘はふてくされた様子で立っている。緊張しているときの癖だ。

先生がたが席を外して2人だけになると、彼女は照れ笑いをしながら、「携帯替えたんだね。見して」などと話しかけてくる。お互いに涙もなく、「感動の再会」からはほど遠い。2年半も会っていなかったことがのような、いつも通りの会話だった。

一時はひたすら死にたいと願っていた私は、いま、「生きていてよかった」と心から思えるようになっている。だが、疑問は消えないままだ。50年間の人生で、何度も死に直面しながらも、いまこうして生きている、生かされている意味は何だろうか。

よく、大きな災害や事故に遭った人、余命宣告を受けた人が、「生きる意味」「生かされている意味」を知ったと語っているのを見る。だが、私の場合は、なぜ生き延びさせてもらえたのかがわからない。こんな自分でも、家族や世の中のためにできることがあるのだろうか? 自問自答を繰り返しながら、いつか見つけられたらと思う。

≪電話口の筆者≫

「闘病生活をサポートしてくれた姉と娘の存在に支えられて、いま仕事を頑張れています」と話す矢沢さん。再び始まった母娘水いらずの暮らしでは、テレビを見ながら会話したり、一緒に台所に立ったりする、そんなささやかなことがしみじみ嬉しいそう。目下の夢は、二人で旅行に出かけること。「世の中が落ち着いたら、必ず行きたいですね」。