昭和6年頃の裕而と金子(写真提供:古関正裕さん)

「うぐいす歌手」のブームに乗って

「利根の舟唄」を当てた古関と高橋掬太郎は、第二のヒットを狙った。昭和10年、高橋は古関に瀬戸の民謡をイメージして「船頭可愛いや」という歌詞を渡した。

この詩を見た古関は、最初はクラシック音楽として作曲しようとした。しかし、民謡好きのディレクターが民謡風に作ることを推したため、日本民謡の良さを生かし、瀬戸内海をイメージして長調の田舎節で曲をつけた。間奏には再び尺八を使っている。

「船頭可愛いや」を歌った音丸(おとまる)は、麻布十番の下駄屋の娘であった。彼女が歌手デビューできたのは、得意の筑前琵琶歌がディレクターに認められたからである。

これより前には本名の永井満津子でレコードを吹き込んでいた。しかし、普通に出していたのでは売れないため、「うぐいす歌手」のブームに乗って、芸者のコスプレをさせた。芸名は「芸妓らしく音丸と名付けた。レコードは丸くて音が出る」という意味である。

レコード会社で流行歌を吹き込むには、原則として音楽学校を出ているか、花柳界で芸事を身につけているかであった。後者の芸者歌手は、美声の持ち主であったから「うぐいす歌手」と呼ばれた。さしずめ彼女たちは元祖アイドル歌手なのである。

ビクターには小唄勝太郎と市丸、コロムビアには藤本二三吉(ふみきち)、赤坂小梅、豆千代、ポリドールには新橋喜代三(きよぞう)、浅草〆香(しめか)、日本橋きみ栄、テイチクには美ち奴(みちやっこ)、キングには新橋みどりがいた。

昭和10年6月に発売した「船頭可愛いや」は、26万枚を売り上げる大ヒットとなった。古関がコロムビアに入社して、4年8ヵ月をかけてようやくつかんだ大ヒットであった。「船頭可愛いや」が大ヒットしたため、その後も古関と音丸の二人三脚はしばらく続いた。

古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル