るん 例えばこの往復書簡でいうと、「たまちゃん」の話とか。

 そうだね。

るん 小学校1年生のときに両親が離婚して、私はお父さんについて、東京からお父さんの新しい職場がある関西へ引っ越しした。その頃、お父さんが「るんちゃんって、『ちびまる子ちゃん』に出てくる“たまちゃん”みたい」と言ったことがあったんだよね。

 るんちゃんが眼鏡をかけるようになって、外見が“たまちゃん”に似てきたので、何の気なく言ったんだよ。ところが、るんちゃんが「似てないよ!」と憤然と言い返したので、びっくりした。

るん お父さんはたぶん私のことを「たまちゃんみたいに優しい子」と言いたかったんだよね。でも、“たまちゃん”ほど、あの頃の私のフィーリングとかけ離れたキャラクターもいないと思ったから。

 30年経った今なら、あのときにるんちゃんが声を荒らげた理由もわかるよ。離婚直後の大変な状況の中、父親の負担を気遣って優しい子のように振舞っているのに、「それを生まれつき優しい子だと思わないで。演技していることに気づいてよ!」と言いたかったんだよね。それを僕は察することができなかった。

るん 私も即否定したものの、「お父さんがそう言うなら、私は“たまちゃん”なのかな」ってしばらく考え込んでいた。親に「あなたって、こうだよね」と言われたことは、かなり重く響くから。親の言葉を子どもは鵜みにしてしまうものなんだよね。

 ごめんね。

るん うん。今回の往復書簡で初めて離婚のときのことを謝ってくれたのは驚いたし、嬉しかった。

『街場の親子論-父と娘の困難なものがたり』著:内田樹/内田るん(中公新書ラクレ)

 「ごめんね」と「ありがとう」は何度でも言わなければいけないと思っています。まあ僕はすぐに謝るから、あまりありがたみがないかもしれないけれど。(笑)

るん そんなことないよ。ただ文章のほうが、より気持ちがこもっているように感じるのは不思議。

 「たまちゃん」の件みたいに、一つの話題を続けていると、あの頃の生活や感情が立ち上がってくる。そういう記憶の共有・相互確認ってけっこう大切だと思う。それぞれ手持ちの記憶を持ち寄り、「こういうことがあったよね」って証言を突き合わせて「記憶の統一見解」をつくって、共同管理する。そういう「記憶のアーカイブ」がしっかりしていると、家族関係は安定するんじゃないかな。

るん そうだね。私とお父さんの中ではこれが公式記憶だけど、例えばそこにもう1人入ってくると、また別の共同管理が生まれる。記憶ってそういう多層的なものだと考えると、すごく納得がいく。