1988年8月に母方の伯母のところへ遊びに行ったときの1枚。 キャンプ場でスイカを食べる父娘(写真提供:るんさん)

25年前の震災を今、振り返ってみると

 阪神・淡路大震災があったのは、るんちゃんが小学校6年生のときで、未明に、爆発みたいな轟音がして家が揺れた。僕は顔の上に箪笥の引き出しが降ってくるという、悲惨な形で起こされた。

るん 私は隣の部屋で寝ていたら「るんちゃーん、大丈夫かー!」ってお父さんの叫び声で目が覚めた。家の中はめちゃくちゃで、お父さんがよたよた廊下の向こうから現れて、「るんちゃん、るんちゃん」って私をぎゅっと抱きしめた瞬間に、余震がバーンと来て。「ああ、これで死ぬのか。短い人生だったな」と納得しちゃうぐらいの、すさまじい地震だった。

 外に出たら芦屋駅がなくなっていてね。あれには驚いた。うちのマンションは半壊で、3週間ぐらい夜だけ小学校の体育館で寝泊まりしたね。るんちゃんは文句ひとつ言わず留守番したり、給水車に水をもらいに行ったり、本当によく働いてくれた。

るん 地震に文句を言ってもしかたがないもの。だけどすぐに友達のお母さんがタッパーにご飯をつめて車で来てくれたのは印象的だった。「るんちゃん、大丈夫? うちは電気もあるしお風呂も入れるから、いつでも来てね」と言って、次の人のところにパッと飛んで行く。それを見て、助けてくれる人がいるから大丈夫だと安心した。あのときの経験は自分にとってすごく大きいな。

 被災したときは涙が出るほど、いろいろな人から気遣ってもらったよね。日本は市民社会がしっかりしているな、本当にみんな助け合って暮らしているんだなと思った。あれから25年経った今、新型コロナで人々の気持ちがささくれ立っているのを見ると、お互いに支え合ったあのときのマインドがずいぶん希薄になったと思う。

るん 経済を第一とするような思想が一般まで浸透したせいかな。でも私は阪神・淡路大震災のときの経験があるので、例えば今、マンションの掲示板に「トイレットペーパーがない方にお分けします」と貼り出したりしている。そうすると「ありがとう」という返事がもらえる。そんな市民同士の融通という選択肢があるのは大切なことだと思う。テレビやネットの一方通行的な情報だけだと、すごく不安になるから。

 コロナ後は産業構造も含めて社会の形がずいぶん変わると思う。資本主義のあるフェーズが終わるという気がする。

るん そこで、より格差の激しいディストピアユートピア〈理想郷〉の逆の概念。暗黒の世界)になるのか、それとも阪神・淡路大震災のときのように市民の横のがりで社会を回していこうという形になるのか。すごく分かれ目だという気がする。

 そうだね。