左からマルコ爺さん、母、アントニア 

 

これまで生きて来て一番つらかったことは? たとえば親やそれ以上の世代の戦争体験などは最たるもので、経験していなくとも想像できる。しかし、ヤマザキマリさんの義理の祖母にとっての最大の苦しみは戦争やスペイン風邪をも上回るできごとだった――(写真・文=ヤマザキマリ)

人生の峠越え

人にはそれぞれの、人生における峠というものがある。越えた峠は一つだけだったという人もいれば、中には数え切れないくらい越えてきた人もいるだろう。私の母が乗り越えた大きな峠の一つは間違いなく第二次世界大戦だ。昭和一桁生まれの親を持つ人であれば皆心当たりがあると思うが、戦中戦後に日本国民が強いられたひもじさ、不安、恐怖、荒んだ社会について、今までにいったい何度同じ話を聞かされてきたことか。特に食べ物に関しては相当なトラウマがあるらしく、母は今でもジャガイモに頑なな拒絶反応を見せる。飛行機で機内食が出れば食べ切れなかったパンを紙ナプキンに包んでカバンに入れる。「まさかそれを後で食べるつもりじゃ」と問いただせば、「当たり前じゃないの、もったいない」と返す答えに惑いはない。そんな親を持った私までの世代なら、戦争未経験者であっても当事者の感じた恐怖や辛さの3割くらいは現実味を込めて語ることができるだろう。

ちなみに私の数ある峠の中で最もハードルが高かったのは、やはり11年に及ぶイタリア留学時代の困窮生活だろう。17歳で画家になることを志してやってきたイタリアで、最初に恋に落ちた相手は4歳年上の詩人の青年。この人とは子供が生まれるまで同棲生活を続けたが、何せ職業は詩人である。11年の間に何度野垂れ死にの危機を感じたか知れない。当時バブルだった日本からたくさんやってくる観光客の、通訳やガイドのバイトの稼ぎでなんとか苦境を凌いではいたが、ある時詩人が思い立って始めた商売が破綻し、借金地獄に陥って何もかも失おうとしていたとき、私は出産を控えた未婚の妊婦だった。予定日よりも1ヵ月早く陣痛が来て、ひとりでタクシーを呼び、ギリギリで病院にたどり着いて男児を出産。子供がこの世に出てきたと同時に、詩人には大人の面倒を見るゆとりは無いと別れを告げた。あの時は峠を越えている自覚など一抹もなかったが、今思い返せば大きな山登りをしてきた感がある。

私の夫の祖母であるアントニアは、パンデミックを経験している。アントニアは自分の父親と叔母をスペイン風邪の大流行で失った。1918年から1920年、第一次世界大戦中に3度にわたって感染のピークをもたらしたこのインフルエンザは、全世界で5000万とも1億とも言われる死者を出している。

当時アントニアが暮らしていた地域はオーストリア=ハンガリー軍とイタリア王国との前線にほど近く、戦場となった東アルプスの山や麓に、大砲で大きな穴が開けられていく音に恐怖を覚えながら暮らしていたという。スペイン風邪が流行り出したのは、戦争がやっと終わりかけていたころだ。激動の中をなんとか生き延びたアントニアはやがて結婚、陶器職人の夫とともにイタリアの植民地であるアフリカのエリトリアへ新天地を求めて移住するも、間もなく第二次世界大戦が勃発し、先に子供を連れて再びイタリアに帰国、後から戻ってきた夫は別の女性を好きになりアントニアとは別居。彼女の人生を思うと、自分の苦労など羽毛のように軽く感じられる。

しかしアントニア曰く、彼女にとって最も苦い思い出はスペイン風邪や戦争ではなく、夫の浮気だったという。アントニアの夫というのは、私が14歳の一人旅のときにベルギーで出会い、後に私のイタリア留学のきっかけを作ったマルコ爺さんなわけだが、アントニアは晩年あらゆることを忘れても、マルコ爺さんの浮気話となると「ああ、あのドイツ女は」とか「あのフランス娘め」などといかなる詳細も思い出していた。

人間というのは私たちが思っている以上に気丈にできている。