産んだ後も、お産でさらに痛めた身体は節々が疼き、中には強い痛みで起き上がれない者もいた。そういうとき、安産膏を腰や膝、背中に貼れば、多少なりとも楽になる。それは確かなようで、長きに亘って、女たちは伊野屋の看板ともなる膏薬を重宝してきた。ただし、この膏薬は高直だ。他の軟膏の二倍以上の値になる。
おゑんは、末音の調合した塗り薬を使う。使い比べたことはないが、“安産膏”と同等かそれ以上の効能はあるはずだ。
「さようでございます。二代目が考え出した膏薬ですが、代々工夫を重ねておりまして、わたしも先代も、効能はそのままに、もう少し安価なものを作れないかと悩んでおりましてね。“安産膏”をさまざまなお客さまにお買い求めいただけるよう……あ、いや、すみません。こんな話、どうでもよろしいですね」
「いいえ、とんでもない。伊野屋の先代と今のご主人が、そういうお考えであったとは、嬉しい限りですよ。頼もしくも感じますしねえ」
おゑんは本気で、そう口にした。効能のある、いわゆる良薬と呼ばれるものは、並(な)べて値が張る。よほどの分限者でなければ、購うどころか目にすることも難い薬がかなりある。つまり、金のない者、貧しさゆえに手が届かぬ者には幻と大差ない。決して手に入らないのだから。それはつまり、治るはずの病を治せず死んでいくこと、生き延びる道を閉ざされることを意味する。金の有る無しで人の命が救われも、捨てられもするのだ。
それが現だ。理不尽極まりない。
そんな想いに度々、こぶしを握った。理不尽極まりない現とどう闘うか、思い惑いもする。老舗の生薬屋の四代目と五代目が、本気で薬の値について思案してくれたのなら、心強いではないか。一人勝手ではあるが、同じ志の仲間を得たような気さえする。
今日は薬の仕入れや患者とは無縁の用で訪れたのに、伊野屋の主人の心意気をもう少し聞いていたいような気にもなる。
「ありがとう存じます。薬は使ってもらい、治療に役立ってこそですからねえ。たかだか膏薬ですが、腰や膝、肩の痛みに難儀している患者さんには重宝していただいております。とりわけ、お産の間近な女人は、だいたいが腰の痛みに苦しめられますから……いやいや、すみません。また、話が横道にそれておりますね。でもまあ、そういう話、お産や膏薬云々の話を先代としていたときに、急に『おまえは、おゑん先生の噂を聞いているか』と尋ねられましてね。ええ、本当に唐突にです。わたしは知らないと答えました。重ねて『その方は、どういうお人なんだ』と問い返したら、先代はそのまま黙り込んでしまって……暫くして一言『お医者だ』と、呟きまして。わたしは当然、続きがあるものと耳を傾けていたのですが、それだけでした。そのまま、むっつりと黙り込んでしまいましてね。まあ、歳も歳で、病も抱えて弱っていく一方のころでしたから、長くしゃべったり、歩いたりがなかなか難しくはなっておりましたし、本人も頭の中が上手く纏まらなかったのでしょう」
ああ、やはりそうか。
おゑんは零れそうになったため息を何とか堪えた。
遅すぎたか。あまりに長い年月が経ってしまった。けれど……。
「先代は、あたしのことをお医者だと仰ったんですね」
「ええ、呟きでしたが、はっきりと申しましたよ。お名前から女人だと察せられましたので、『女のお医者さまってのも珍しいねえ』みたいなことを申しましたら、もう一度、同じようなことを……ええ、ちょっと奇妙というか、変てこというか……その、えっと確か『おゑん先生はお医者だ。ただ、それだけだ』みたいなことを申しました」
おゑん先生はお医者だ。ただ、それだけだ。
先代伊野屋宗兵衛の呟きを胸の内でなぞる。
ただ、それだけ。
その言葉の重みを噛み締める。
「ええ、その一言だけなら別に奇妙とかじゃないのですが……そのときの先代の顔つきが何と言いますか、歪んだようにも、微笑んでいるようにも見えてしまって。その顔と“おゑん先生”という名が一緒になり、ずっとここに」
と、宗兵衛は自分の頭を指差した。
「残っていたのですねえ。ええ、先生のお名を聞いて、記憶がずるずると引きずり出されましたよ。忘れてなかった」
「伊野屋さん」
おゑんは僅かに前のめりになった。
「あたしについて、先代が口にしたのは、そのときだけだったんですね」
「はい、さようです。前にも後にも、わたしは耳にしたことがありませんでした。ですから、その、何と言いますか驚いております。絵姿とか人形(ひとがた)のように、生きているお方ではないような気になっておりましたから。こうして、我が目でお姿を見られるとは、ええ、驚きです」
宗兵衛は何度も頷きながら、そう語った。
「ごく、ありふれた見掛けで申し訳ござんせん。あたしが、この世の者ならざる姿をしておれば話の種にもなりましたのにね」
「いやいや、正直、こんなにお美しいお方だとは思うてもおりませんでした。店に入ってこられたとき、束の間ですが息を詰めてしまいましたよ」
「美しい? あたしが? まあ、これはこれは耳慣れないことを聞きました。ふふ、お世辞でも嬉しゅうござんすよ、伊野屋さん」
「え? いや、お世辞なんかじゃございません。先生は、お美しいと思います。ありふれてなどおられませんよ。はい、ありふれた佳人じゃない。そう……人によって見え方が違うのではございませんでしょうか」
そこまで言って、宗兵衛は口を閉じ、頬を赤らめた。
「す、すみません。何とも不躾なことを申しました。いや、まったく、我ながら、何を言っているのだか。えっと、あの、先生……先代とお会いになりますか」
思わず腰を浮かしかけた。
「え、お目にかかれるのですか」
先代伊野屋宗兵衛と会える?
おゑんは膝の上で指を握り込んだ。
遅すぎたと思ったのだ。先代は既に、彼岸に渡ったのだと半ば諦めていた。
「ええ、会うことはできます。ただ、会っても話ができるかどうか……」
宗兵衛の表情が目に見えて硬くなる。
「昨年、母が亡くなりました。それ以降、親父、みるみる老けてしまいましてね。このところ、ほぼ寝たきりの有り様です。物もあまり食べず、お医者さまからは、もって三月(みつき)だろうと言われてしまって。あ、そうだ、先生。親父を診てもらえませんか」
先代という呼び方が親父に替わっている。
「あたしが? でも、伊野屋さんほどの身代なら、掛かり付けのお医者がおられるでしょう」
「ええ、それはおります。けれど、一生懸命でないと言うか……どんなに手を尽くしても三月しかもたないと決めつけていて、わたしの目から見ても診療がいい加減なのです。それが、何とも口惜しくて……」
宗兵衛が唇を結ぶ。
「よい、息子さんですね」
「はい?」
「先代は、よい息子さんを持たれました。子がそこまで本気で、懸命に思案してくれる。親としては、この上ない幸せじゃありませんか」
その医者に、宗兵衛が憤るほどの落ち度はないだろう。これ以上、手の尽くしようがないと余生を区切ったのなら、少しでも楽に、少しでも心安らかに患者が過ごせるよう努める。そのために、無駄な治療は施さない。
そう決めたのではなかろうか。それを息子は医者の決めつけと手抜きのように受け取ってしまった。命を延ばすために、ぎりぎりまで闘ってほしいと望んだ。
善も悪もない。ただ、言葉が足らなかったのだろうとは思う。宗兵衛も医者も。
死にいく者を挟んで、こういう食い違いはままあることだ。どうくいちがっても、宗兵衛が父親に一日でも長く生きてほしいと望んでいるのは事実だろう。
おゑんさん、あんたは生きなきゃならない。容易く散っちゃあいけないんだよ。
一言一言、噛み締めるように諭してくれた顔が今、目の前にいる商人と重なる。まるで似ていないのに、ぴたりと重なっていく。
「実は、わたしは母親の連れ子でして、親父とは血の繋がりはないのです」
宗兵衛がぼそりと告げる。
そうか、どうりで覚えがないはずだ。
おゑんの記憶にある伊野屋宗兵衛は、早くに連れ合いを亡くした独り身の男だった。頑固なのか一途なのか、風向きによってどちらに転ぶか推し量れず、けれど、確かに筋は一本、心の内に通している。そんな商人でもあった。
子どもの影はなかった。当代伊野屋の主を見て、だから少し戸惑いもしたのだ。
「けれど、親父は心底からわたしを慈しんでくれました。わたしが物心ついたときには、既に実の父親はいなくて……ですから、父親の慈しみってものを教えてくれたのは、親父なんですよ。だからこそ……恩返しも、親孝行もと……」
「旦那さま、すみません」
手代の一人が主に耳打ちする。宗兵衛が頷き、短い指図を伝えると、手代は安堵の表情を浮かべた。その耳にもう一言、二言、宗兵衛が囁く。今度は手代が点頭し、足早に去っていった。忙しそうだ。そして、この若い主人を芯として伊野屋は危なげなく回っている。しっかりと代替わりができているのだ。
(この章、続く)












