専属作曲家を解雇されるという危機一髪は逃れたが、会社は古関に期待しなかったようだ。そのことは、昭和8年に古関が作曲した曲のほとんどが、地方のある特定の地域を対象とした歌であることにあらわれている。
昭和8年1月の「日本アルプス行進曲」と、五月の「青森市民歌」は、東京日日新聞社の当選歌である。同年7月の「山形県スキー小唄」と「郷土の唄」は、前者が山形新聞社、後者が室蘭毎日新聞社の当選歌であり、いずれも新民謡ブームに乗って作られた。同年8月の「麗しの瀬戸内海」は、翌9年3月に最初の国立公園となった場所を題材にしている。昭和8年4月の「外務省警察歌」などは、タイトルだけ見てもヒットする気配のないことがわかる。
「船頭可愛いや」は、そのような針の筵の状況下で、4年8ヵ月をかけてようやくつかんだ大ヒットであった。
200枚しか作られなかった「六甲おろし」
古関が昭和6年に作曲した早稲田大学の応援歌「紺碧の空」は評判がよかった。そのため、昭和6年10月に「日米野球行進曲」、昭和9年8月に「都市対抗野球行進曲」を作曲している。
そして、昭和11年2月には通称「六甲おろし」で現在も愛唱される「大阪タイガースの歌」が作られた。中野忠晴が吹き込んだオリジナル盤は、関係者に配布する200枚しか作られなかった。しかし、アジア・太平洋戦争後の昭和20年代からは、タイガースファンの間で歌われ、関西では知られるようになっていた。