大戦末期、戦艦大和とともに沖縄水上特攻を命じられた駆逐艦響は周防灘で触雷、落後する。乗組員の浦賀少尉は、日本の内海すら米軍の機雷で埋め尽くされた現実に愕然とする。
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!

第二部 勃発

「よく焼けたものだ」
 昭和二〇年八月一五日の昼下がり、松原保(たもつ)少佐は思わずつぶやいた。
 見上げる先には、海軍省の庁舎がある。赤レンガと長い歴史を積み上げた海軍自慢の建物が、いまは焼け焦げた外壁を残すのみの瀟洒(しょうしゃ)かつ重厚な廃墟に変わっていた。
「しかし、消え失せてはない。朽ちてはいるが、燃え殻くらいは残っている」
 周囲を見渡せば、帝都そのものがすっかり焼け野原になっている。そして今日の正午、つまり先ほど、ラジオで天皇の玉音が放送された。松原は他の建物に移った職員たちと広間で放送を聞き、そのまま外へ出た。足が向くまま、やけに見晴らしのよくなった帝都をとぼとぼと歩き、気が付けば海軍省庁舎の前に立っていた。
「戦争は終わったが」
 ひとりでぶつくさと続けながら、松原は目を転じる。遠くの宮城では、堀のきわで無数の小さな人影が立ちすくみ、あるいは土下座していた。
 三月の大空襲では下町と八万人強の市民が炎に呑まれ、より大規模の航空部隊が山の手へ押し寄せた五月の空襲では、海軍省庁舎だけでなく二〇万以上の家屋が焼かれた。宮城内の明治宮殿も焼けてしまったが、そこにおわす現人神(あらひとがみ)への国民の思慕まで消えてしまったわけではない。敗戦を自らの無力の結果と捉え、天皇へ詫びたい心情に駆られる人も少なくないらしい。
「海軍も俺も、まだ燃え尽きてはおらん」
 ひとりごとを打ち切って松原は歩き出す。海軍省が面する日比谷公園の外周に沿って少し行くと、日産館がある。鉄骨鉄筋コンクリートの丈夫な造りで、空襲にも耐えた。地上八階建ての偉容は、いくばくかの煤(すす)がついているのみだ。もとは日産コンツェルンの社屋だったが、いまは海軍に接収されて航空本部と艦政本部が入っている。松原は艦政本部に所属し、機雷の研究や現地部隊への講習に当たっている。
 堪え難きを堪え――。
 玉音の一節は、むしろ松原を奮い立たせている。いまこそ働かねば、とさえ思った。やや昂(たかぶ)りすぎてしまったから、落ち着くために外を歩いていた。
 石段を登って日産館の仰々しい玄関を抜けると、大きな広間になっている。ふだんなら、もとの庁舎を焼け出された海軍省の職員たちが黙々と働いていたが、いまは耳を塞ぎたくなるほど騒々しい。誰もかれもが、敗戦を受け止めかねていた。
 松原は早足で館内を抜け、自席へ戻った。書類の束をひっくり返し、稼働状態にある掃海艦艇のリストや敷設機雷をプロットした海図などなどを、丹念に確かめる。
 今日からは、敵の航空機や潜水艦におびえずにすむ。苦心して掃海したはしから新たな機雷がばら撒かれることもない。掃海作業はより円滑に進むはずだ。
 松原は掃海計画の改定に取りかかった。機雷の研究という職務の範疇(はんちゅう)外だが、かといって、機密書類の焼却に精を出すのは後ろ向きすぎて気が滅入る。敗戦にまつわる憤りや悲嘆の発表などは誰の職分でもなかろう。
 大量の紙が焼け焦げてゆく臭いに鼻をくすぐられ、怒号や号泣の声に耳を掻きまわされながら、松原はひたすら鉛筆を動かした。
 なにも終わっていない、と松原は叫んでしまいそうだった。北方ではソ連軍の侵攻が続いている。膨大な兵員を復員させる段取りも始めねばならない。米軍が敷設した機雷は海を寸断し、日本は孤立した島々に変わっている。形だけ終わった戦争を、ほんとうに終わらせる。だから、いまこそ働かねばならない。
 その日の夕刻、沖縄へ向けて一一機の海軍機が飛び立ち、アメリカ艦隊へ特攻した。うち一機に乗っていた第五航空艦隊の司令長官は、未帰還となった。日付が翌日に変わったばかりの深夜には、特攻作戦の第一人者だった海軍軍令部次長が腹を切って死んだ。
 厚木の海軍飛行場では、降伏を拒否する航空隊の司令が賛同する部下ともども、籠城状態に入った。海軍大臣と、海軍大佐を務める天皇の弟宮まで出てきて説得したが籠城は続いた。
 司令が戦地で得たマラリアの再発によって昏倒すると籠城者内にほころびが生じ、一〇日ほど続いた叛乱はなしくずしに終わった。
 陸軍でも大臣が割腹自殺し、また一部将校が玉音放送のレコードを奪おうとして未遂に終わる事件があった。関東軍、支那派遣軍、南方軍には天皇の命令で皇族軍人が派遣され、各司令官に降伏を受け入れるよう説得があった。切腹やピストル、航空機での自殺が相次いだ。
 外地では八月一五日を過ぎてもソ連軍の侵攻が続いた。日本の代表団がアメリカ戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書に署名した三日後の九月五日、ソ連軍はようやく停止した。