日本は本土決戦にむけ、大動員を進めていた。結果、終戦の時点で内地には四三〇万人を超える陸海軍将兵が展開していた。外地には軍民あわせて七〇〇万人がいた。
戦争が終われば復員が始まる。 ただし外地のほうは輸送手段の確保に時間がかかる。復員はまず八月下旬、内地の部隊から始まった。特別列車が仕立てられ、各地の駅は連日、復員者であふれた。
 そのさなかの八月二八日には米軍の先遣隊が、次いで三〇日にマッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に降り立った。飛行場は終戦直後の叛乱のために航空機の残骸があちこちに散らばっており、民間会社の手伝いで何とか片付けられていた。
 日本の陸上では急速に「戦後」へ移行していく。対して海では、交通を寸断する機雷の脅威が健在だった。玉音放送の日から八月いっぱいの半月間で大小二八隻が触雷し、うち十四隻が沈没した。
 また二四日には舞鶴港の目前で、乗客四〇〇〇人を乗せて釜山へ向かおうとする海軍輸送船「浮島丸」が爆発、沈没した。敗戦直後の混乱があり、また事故の大きさが現地の情報を錯綜させ、詳しい検証はできなかったが、死亡と不明者を合わせて二〇〇〇人を超えると推定された。乗客のほとんどは、徴用を解かれて故郷へ帰る朝鮮人労働者とその家族。事故原因は触雷の可能性が濃厚だった。
 掃海は一刻を争うことが明白となった。だが九月一日、海軍省は掃海の拡充ではなく中断を決定する。占領軍の指示を待つ、という理由だった。松原は腹立ちまぎれに数本の鉛筆をへし折ったが、掃海計画の立案に加わるよう正式に命ぜられ、気持ちを入れ替えた。
「貴様は口が悪い。ほかの職員とうまくやれるか心配である」
 上司の村上八郎課長は、松原にそう言った。五十路手前の大佐で、海軍内では機雷のエキスパートとして名高い。ただし陸上勤務が長く、潮気ゆたかな海軍将校というより技術部門の責任者らしい理知的な雰囲気を持つ。
「そうおっしゃる課長は、近ごろ顔色がお悪いようですが」
「持病の胃がよくないのだ。きみも、あまり私を悩ませんでくれよ」
「もしご体調が回復されたら、それはこの松原の働きのおかげと思っていただきたく」
「私の胃より機雷だ。きみはどうか」
 青い顔のまま、村上がじっと見返してきた。
「――同じ思いです。部下としては課長の健康を気遣うべき身ですが」
「よろしい。ではさっそく仕事にかかれ。きみが勝手にやっていたらしい計画の研究を、存分に生かしたまえ」
 いい上司に巡り合えた、と松原は思った。
 翌九月二日、連合国最高司令官総司令部は、はじめてとなる日本への命令「一般命令第一号」を発する。日本軍の武装解除、戦地ごとに降伏する相手国の指定などを内容とした。 また、日本国は連合国最高司令官の指示に従って機雷を除去すべし、とされた。
 海軍では残存の艦艇と重油をかき集め、復員船を送った。その月の下旬には外地からのはじめての復員船となる病院船「高砂丸」が、独立混成第五〇旅団の陸軍兵を乗せて大分に帰りつく。同旅団は飢餓と疫病ですでに四五〇〇名近くの戦病死を出しており、復員できた一六〇〇名も生死の境にあった。
 同じころ、天皇がマッカーサーを訪問した。直後に公表された写真では、現人神とあがめられたお方が、小柄な体躯をきちんとした洋式の正装に包んでおり、占領者側の元帥はくだけた軍服姿で両手をポケットに突っ込んでいた。国民は衝撃を受けた。
 一〇月六日、アメリカ第五艦隊の指揮下で掃海が再興される。待たされていた日本の掃海隊は、それまでに練り上げられた編制と計画に基づき、猛然と海に出て行った。

             〈つづく〉

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