念願の製作所をオープン
私たちの活動は、96年に「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」としてルワンダ政府よりNGOの承認を受けました。翌97年には、ガテラが政府に掛け合い、バーだった建物を借り受けて義肢製作所を開設。義肢装具士は私のほか、彼が見つけてきた2人の計3人です。日本にいたときは親方の最終チェックを受けて修正できたけれど、ルワンダでは自分でゴーサインを出さないといけない。それがプレッシャーでした。
商売として義肢を販売できたらベストなのですが、必要としている人のほとんどは、お金に余裕がありません。そこで無償で配る体制を作るため、寄付集めや助成金申し込みなどに奔走し、資金を作りました。以来、約20年間で延べ1万1000人分の義肢や杖を配っています。
患者さんの反応はさまざまです。喜んでくれる人が多いものの、「いらない」と言われたこともあります。何が気に入らないのか聞くと、「格好悪い」と。私も最初は考え違いをしていて、「ただであげるんだから、多少格好悪くてもいいじゃない」という気持ちがあった。でも、自分が欲しくない服をもらって嬉しくないのと同じですよね。
また、義肢を作ってもらっている最中は嬉しそうだったのに、結局は使わず、道端で物乞いをしている人も。義肢があるとお金を恵んでもらえないと言います。それぞれに事情があり、必ずしも喜んでもらえるとは限らない、と活動を続けるうちに知りました。
その後、ルワンダや日本のメディアで紹介されたことで寄付が集まるようになり、活動の規模が大きくなりました。職業訓練所、ゲストハウスなども自分たちの手で作り上げて、その収益も義肢作りに回せるように。なんとか軌道に乗ったかと思っていたら……昨年のクリスマスに大雨が降って洪水が発生し、工房の大部分が浸水してしまいました。そのうえ、「ここは湿地帯で危険だから立ち退け」と、政府から追い出されたんです。レンガを焼くところから作り上げてきた建物が、一瞬にしてブルドーザーで壊されました。
強引なやり口で立ち退かされてしまったことが、とても残念です。さすがにガテラも落ち込んでいましたが、今は辛抱のしどき。これまでのように作業を再開するために、2人で力を合わせていくだけです。
私ももう50代後半ですし、ガテラは9つ年上。ときどきふと、彼が先に逝ってしまったら、私はどうしようかと考えることもあります。元気なうちは、ルワンダと日本を行き来して仕事を続けるでしょう。でも無理がきかなくなったら、日本に戻って資金集めなどの手助けに専念するかもしれません。結局のところ、私がルワンダにい続ける理由は、彼がいるからなんです。
今、ルワンダでも新型コロナウイルスの感染者が出ており、欧米のような状態になってしまうのではないかと心配です。私が予約している飛行機も果たして飛ぶかどうかわかりませんが、今はただ早くルワンダに戻り、新しい義肢製作所を建てて、製作を再開したい。その思いでいっぱいです。