「男装の女医」高橋瑞の痛快な人生
高橋瑞(1852〈嘉永5〉―1927〈昭和2〉)という明治時代の医者をご存知でしょうか。彼女なしに日本の医学史は語れないという存在であり、言動は破天荒、人生は波乱続きであったにもかかわらず、これまであまり知られずにきました。それもそのはず。本人が前半生を語ろうとしなかったため、まとまった形での伝記が存在しなかったのです。
瑞は昭和の初頭に亡くなり、遺骨は遺言にしたがって骨格標本にされたのですが、長い歳月の間に散逸してしまいました。平成に入ってから専門家が探し出し、遺骨について最新の調査研究を行ったところ、瑞には妊娠経験があったことがわかりました。瑞が子どもを育てたという記録は残っていないので、その妊娠がかりに出産まで至っていたとしても、子どもとは生き別れたということになります。
瑞は産科医として、貧しい妊産婦に無償施療を行っているのですが、もしかしたら自身の妊娠経験が影響していたのかもしれません。いずれにしても、彼女の痛快な人生、そして同時代を生きた女医たちの連帯を埋もれさせておくのは、あまりにももったいないと感じ、残された史料をもとに書いたのが『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』です。
明治時代、女は医者になれなかった
高橋瑞は、江戸末期の1852(嘉永5)年、現在の愛知県西尾市の武家に生まれました。明治維新によって家は没落、紆余曲折を経て群馬で「産婆」となりますが、産婆では救いきれない命があることを痛感し、医者を志します。
しかし当時、医者になるための試験(医術開業試験)は男性しか受けることができず、受験のために通わなければならない医学校は、いずれも「女人禁制」でした。瑞は、産婆仲間たちと連れだって、試験を管轄する内務省に出かけ、女子にも受験を許可してほしいと請願しますが、叶えられません。
同じ頃、のちに女性医師(以下、女医)第1号となる荻野吟子や、第2号となる生澤久野(いくさわ・くの)も、受験の請願を行っていました。彼女たちの立て続けの請願が功を奏し、1884(明治17)年、内務省は女子の受験を許可します。
吟子と久野は、 特別なツテを頼って「女人禁制」の医学校へ入学し、「医術開業試験」に合格することができましたが、瑞にはツテどころか、医学校へ払うお金さえありませんでした。そこで、学費を月ごとに支払えばよい「済生学舎」(現日本医科大学)へ入れてもらおうと、校長の長谷川泰(はせがわ・たい)に直談判を試みます。