後進のため、骨格標本となる

最初に述べたように、瑞は献体するとともに、自分の遺骨で骨格標本を作るように遺言しました。それには理由がありました。

今日、骨格標本はおもに合成樹脂で作られ、小学校の理科室でも見ることができますが、当時は貴重な教材で、本物の遺骨か、あるいは木製の高級品しかなく、医学校でさえ数体しか所有していませんでした。そのため男子学生が占有し、女子学生には見せないという嫌がらせもありました。女医第4号となった本多銓子(ほんだ・せんこ)は標本を見せてもらえず、高輪の泉岳寺の墓地に入り、落ちている骨を拾って勉強したという逸話も残っています。

瑞はこの話を人づてに聞いていたので、あとに続く女子医学生たちのために自らが標本になろうと考えたのでしょう。献体先は、吉岡弥生の東京女子医学専門学校(元東京女医学校、現東京女子医大)でした。

本書には、高橋瑞のほか、荻野吟子、生澤久野、本多銓子、吉岡弥生といった同時代の女医たちが複数登場します。史料から、彼女たちが別々に歩みつつもさりげなくつながっていたことが読み取れ、心が温まりました。

今日「女医」という言葉が不適切用語だという認識もありますが、初期の女医たちはまさに女医として差別され、女医として生きたので、本書ではあえてこの言葉を使っています。

近代の女医が誕生してから135年。現在、医療現場で活躍する女性医師は、7万人を超えています。

 


※本記事には、今日では不適切とみなされることもある語句が含まれますが、執筆当時の社会情勢や時代背景を鑑み、当時の表現のまま掲出します