「残された家族が困らないためには、相続税対策というのも非常に大切なんです。」(生島さん)

相続対策の形は家族の数だけある

梅宮 だけど父の資産を母と整理していて「パパってすごいね」と感心したのが、死亡した時点で借金が完全にゼロだったこと。真鶴の家のローンも数年前に完済し、ここ15年ほどは、自分ではカードも使わない現金主義でした。

生島 キャッシュレス時代と言われるけれど、やっぱりお財布にいくら入っているか確かめながら使うほうが安心だもの。特にリタイア世代はそうだと思う。

梅宮 書斎にあったノートには、「〇月×日、何にいくら使った」と、食料品から愛犬4匹のトリマー代まで几帳面に記録してありました。その脇に、その日に観たテレビの感想というか辛辣な批評みたいなこともブツブツ書かれていて、これが本にまとめたらと思うくらい面白いんです。

生島 夕刊紙や週刊誌に連載していたコラムも愛読していたけれど、それ以上の、芸能界に対する梅宮さんの「本音」ですね。それは読んでみたいなあ。

梅宮 なかには「〇月×日、今日はママに今月の生活費を渡したが、ありがとうの『あ』の字もない」とか、私が引っ越しのどさくさで光熱費を支払い忘れた時には「40歳過ぎて電気を止められる奴があるか。俺は心配で死ぬに死ねない」なんて家族に対するブツブツも。そんなに心配なら、ノートに遺言のメモくらい残しておいてよと思いましたけど。(笑)

生島 コラムでは勝新太郎さんや松方弘樹さん、山城新伍さんなど昭和の大スターの思い出も書いていらっしゃいましたね。あの時代の俳優さんは遊びも豪放磊落で、“宵越しの金は持たない”みたいな人が多かった。晩年はお金に苦労する生活を送った人も多いなかで、梅宮さんはお幸せでしたね。

梅宮 松方さんが脳腫瘍で倒れた時は、父が好物の海苔弁を作って病院へ何度も差し入れしていたのを覚えています。転院するかもしれないと聞いて、「ストレッチャーで乗れるタクシーがあるか調べてくれ」と父から頼まれたこともありました。お葬式も近親者だけでひっそり終わったのがあまりに寂しいと、父が音頭を取り「お別れの会」をホテルで開いたんです。

生島 そうでしたね。

梅宮 仲間のためには、お金も労力も惜しまない。友人から頼まれごとをすると、仕事を蹴ってでも友情を取ってしまうのが父という人でした。一所懸命働いて、一所懸命遊んで、稼いでは失って(笑)。その繰り返しでしたね。

生島 梅宮さんも、お金に関しては山あり谷ありだったでしょう。

梅宮 一番強烈に覚えているのは、「梅宮家氷河期」と家族が呼ぶ6年間。私が小学校に上がる頃、父が知人に騙されて完成間近だった東京・松濤の最初の家を手放すはめになって。工事の間仮住まいしていた外階段のついた小さなアパートに、親子3人暮らした時期もあるんです。

父は「こんな家に住めない」と渋ったようですが、母が「格好つけてる場合じゃないでしょう」と励まして仕事を頑張ってもらったみたい。その後ふたたび松濤に家を持てたのだから、やっぱりすごい人だと思います。

生島 その後、松濤の家は?

梅宮 亡くなる1年前に手放しました。本当は私、真鶴の家があまり好きではなくて、「松濤のほうを残してくれればいいのに」と思ったこともあるんです。でも相続を考えたら、都心に家を持っていなくて本当に良かったと思います。

生島 残された家族が困らないためには、相続税対策というのも非常に大切なんです。たとえばわが家の場合、家族とも相談した結果、相続税を減らすために贈与の年110万円の非課税枠を活用することに。何回かに分けて僕の資産から、息子2人に生前贈与として渡しています。多少なりとも資産を減らしておけば、相続時の彼らへの負担も軽くなるだろうと。

梅宮 相続税対策って、100の家庭があれば100通りあるのでしょうね。うちは5年前に、税理士さんの提案で娘の百々果を両親の養子にしました。最初は意味がわからなくて、「百々果もパパの“子ども”になったら、私の相続分が減っちゃわない?」なんて思ったり(笑)。でも私が一人っ子のままだと相続税の負担が大きくなると聞いて、両親も決断してくれました。

生島 二次相続といって、この先お母さんが亡くなった時、アンナちゃん一人が相続人だと相続税が大変になると心配されたんでしょうね。またシングルマザーで仕事に子育てに頑張っている娘を、応援したい気持ちもあったのでは。

梅宮 百々果と私が“きょうだい”になることで、よりいっそう両親と私たちが家族としてつながれたようで心強かったですね。