写真左から、長男で俳優の生島勇輝さん、生島さん、次男で俳優・ダンサーの生島翔さん。2015年9月に撮った1枚(撮影◎レスリー・キー)
家族で食事をしたときの1枚。写真左から、父の梅宮辰夫さん、娘の百々果さん、アンナさん、母のクラウディアさん(写真提供◎梅宮アンナさん)

形のない遺産を次へと大切に受け継いで

生島 僕の息子は2人とも収入の不安定な役者なので、「将来のために蓄えておけよ」という気持ちで生前贈与をしている面もあるんです。梅宮さんとは生前、そういった話もしましたか?

梅宮 いいえ、全然。世の中ではそう見られていないと思うけれど(笑)、私が父からお金をもらっていたのは中学生まで。高校生からはアルバイトを掛け持ちして、自分でお小遣いを稼いでいました。父からもらうと、「誰のおかげでメシが食えてるんだ!」って喧嘩のたびに言われるのが悔しくて。「このくそジジイ! 一日も早く働いて、自分のお金で食べてやる」と決意して、20歳でモデルデビューしてからは実家も飛び出して自活してきたんです。

生島 えらい! アンナちゃんは少々お転婆なイメージもあったけど、実は真面目で堅実なんだよね。

梅宮 生き方が下手、もう少し楽すればいいのにって、周囲からよく言われます(笑)。そんな私を見てきたからか、娘も「男から『食わせてやっている』なんて言われたくないよね。私は自分で自分の面倒を見られる人間になりたい」と言って、アメリカの大学でビジネスを専攻する予定です。

生島 僕がもう一つ感激したのが、梅宮さんが亡くなってすぐの頃に愛用の釣り具を釣り仲間に譲ったエピソードです。

梅宮 真鶴で遺品を整理していたら、父の釣り竿やリールがどっさり出てきました。海を愛し、魚を追いかけて世界中を飛び回った父が大事にしていた道具ですから、やはり価値のわかる人たちに使ってもらいたくて。親しくしていた北九州釣りクラブの皆さんのところまで、男性スタッフ2人と交代で、ノンストップで運転して運びました。父の愛車のアルファードを釣り具でぱんぱんにしてね。

生島 飛行機や新幹線もあるし、それこそ宅配便で送れば簡単なのだろうけれど。

梅宮 なんかね、「それは違う!」と思ったんですよ。物事を簡単に済まさずに、人とのご縁を大事にするのは父譲りの考え方だと思います。それは形のない父の遺産ですよね。それこそお転婆だった頃は父が嫌う人とばかり付き合ったり(笑)、いろいろと心配もかけました。その父を失って今私ができるのは、父が人生をかけて積み上げてきたものを壊さないこと。大切に次へ受け継いでいくことだと思っています。

生島 ご両親を支える立場になって、アンナちゃんもすごく人間的に成長したんじゃないですか。

梅宮 最近嬉しいのは、母が私に「ありがとう」と言ってくれること。そんなこと、今まで全然なかったですから。

生島 ショックからは、だいぶ立ち直ってこられましたか。

梅宮 母は梅宮辰夫という大きな傘に、50年近く守られてきた人ですから。最初の頃は毎日泣いてばかりで、このままうつ病になったらどうしようかと思うほどでした。今は相続のこともあるので、なるべく外に連れ出して、母にも手続きに同席してもらっています。

生島 それはいいですね。真鶴との往復は、アンナちゃんにとっても良い気分転換でしょう。

梅宮 父の看病をしていた頃の嫌な思い出をぬぐいたくて、カーテンを替えたりして少しずつ手を加えているんですよ。「高台の不便な場所」と思った時期もあるけれど、ベランダから海を眺めると、「ああ、この景色を父は愛していたんだな」としみじみ思います。

生島 僕は自分より若い妹が、津波という納得いかない理由であの世に旅立ってしまったことでひどく落ち込みました。その時、「残された人が悲しむ姿を見せると、亡くなった人も悲しむ。その人たちの分まで生きる姿を見せるのが、最高の供養になる」とある人に言われて。アンナちゃんも、相続のことを一所懸命にやって、百々果ちゃんをしっかり育て、お母さんのケアをすることが、梅宮さんに対する最高の供養ですよ。

梅宮 「父が見てる」という感覚は、すごくありますね。この半年、何かを選んだり大事な決断をする時は「パパだったらどうするかな」と考えるようになりました。父が亡くなってからの様子をつづった私のSNSに、「人は親や家族を亡くして、そこから再び人生を勉強する」と書き込んでくれた人がいて。自分はまさに、その段階にいるんだなと思っています。

生島 今日は素晴らしい、貴重なお話をたっぷり聞けて嬉しかった。よーし、僕も次の誕生日で70歳になるのを機会に、今年こそ遺言書を書きますよ。

梅宮 メディアで発表したのだから、絶対ですよ!(笑)