のさかあきゆき 1930年神奈川県生まれ。空襲で養父を失い、上京。シャンソン歌手を志して早稲田大学に入学後、中退。63年「おもちゃのチャチャチャ」で日本レコード大賞作詞賞受賞。67年「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞受賞。社会評論も多数執筆し、タレントとしても活躍した。83年の参議院議員選挙に当選。2003年に脳梗塞で倒れ、リハビリを続けながら執筆活動を行っていた。15年12月9日、心不全のため死去。享年85

「きちんと食べているか」

「もう二度と、飢えた子どもの顔を見たくない」。これは、父が参議院議員選挙に立候補した際のスローガンだ。

思えば父は生涯、食べ物にこだわっていたと思う。

帰宅した父の手には、いつも家族のために美味しいお土産があった。

神楽坂の旅館でカンヅメになれば、「五十番」の肉まん、銀座方面なら「千疋屋」のフルーツサンド、講演先で見つけた駅弁。

そのくせ、それらを贅沢に食べ散らかす幼い私を憎んだ、と記しているのを読んだこともある。飢えて死んだ妹には、決して与えることのできなかったご馳走たち。

はたまた20歳前後、宝塚歌劇団に在籍し、一人暮らしをしていた頃のこと。父は何の前触れもなしに、夜、私の部屋のインターホンを鳴らす。

ドアを開けるとそこにはいつも、両手にビニール袋をいっぱい提げた父が立っていた。

中身はその時によって違う。お菓子だったりインスタントラーメンだったり。生のうどんすきセットが入っていた時は、一日持ち歩いた後らしくすでに匂っていて、とても口にできるものじゃなかった。

何しろ、きちんと食べているか、食べ物の備蓄があるかが心配らしい。シャイな父は、荷物を手渡すとすぐに、待たせていたタクシーに乗り込み帰ってしまう。

突然やって来られた私もつい邪慳にして、今から思えばもっと優しいやり取りがあってもよかったのだ。

私が結婚し出産した時もそうだった。

初孫を抱き再び、はかなく死んだ幼な子のイメージが蘇ったのか。「高価な洋服やおもちゃを買うくらいなら、子どもの食材にお金を払いなさい。きちんとした農業をやるには金がかかるんだ」。ファストフードなんてもってのほか、子どもの口に入るものは全て親の責任、とうるさくお説教。

そしてこれまた事前連絡なく、ふらりと赤ん坊の顔を見にやって来る。照れ隠しなのかたいてい酔っ払っているので、帰り際、

「ママには言うなよ」

と釘をさすのを忘れない。