麻央さんとその子どもたちと(写真提供:麻央さん)

あの日のバラにお返しを

新潟3区の選挙戦で暴漢に刺されそうになった時はショックだったし、大島渚監督と殴り合った映像にも驚いた。しかしもちろんどんな出来事も、父が脳梗塞で倒れたことの衝撃には遠く及ばない。

私は父の手が好きだった。毛深いくせに、意外なほどしなやかできれいな指。

その手で三菱ユニの鉛筆を持ち、うずくまるように顔を近づけて一文字一文字、原稿用紙を埋めていく。

野坂昭如さんの作品は今も、読まれ続けている。「新編-「終戦日記」を読む」(著:野坂昭如/中公文庫)

リハビリを開始して13年間、再び自ら鉛筆を握ることはできなかった。

長い長い介護生活。母を中心に周りの者みんなで父を支えた。

一見悲劇的かもしれないが、自由奔放に生きてきた父が初めてもった穏やかな夫婦の時間ともいえる。生まれてすぐ実母を亡くした父は、妻との13年間で、すっかり昭如少年に戻って見えた。

私には父との忘れられない会話がある。

30年近く前、二人でリビングにいた時、女流作家の森茉莉さんの訃報が流れた。書斎で倒れ、発見されたのは死後2日目だった。

「麻央、ぼくはこんな風に死にたいからよろしく頼みます」

うん、わかった、軽く交わした会話だった。

誰だって長く寝付きたい人などいないし、思い通りに死ねる人もいない。

でも、父との約束は守れなかった。

私は父に会う度に、「どこか痛くない? 苦しくない?」と聞いたが、ただの一度も不平不満や愚痴をこぼしたことはない。

12月10日の朝、父が病院から戻って来た。

その顔は20歳くらい若返って笑みを浮かべているように、不思議なほど美しかった。

革ジャケットを着てボルサリーノハットを抱え、黒メガネをかけた父は多くの人が思い浮かべる野坂昭如そのもの。

私が結婚する日の朝、どこから調達したのか一本のバラを手渡して、幸せに、と言った父。パパごめんね、ありがとう、今度は私が一輪のカサブランカを、柩の中の冷たい頬に添えた。

野坂昭如さんが残した随筆「プレイボーイの子守唄」を併せて読む