「母の生命が刻一刻と失われていく過程を最期の瞬間まで見届けたことで、時間をかけてその「死」を自分に納得させていく作用が働いたのではないでしょうか」

生命が失われる過程を最期の瞬間まで

その後、母の容体は徐々に悪くなり、ついに病院から「すぐに来てください」との知らせが。すぐさま東京に住む下の弟が駆けつけ、続いて私が行きました。このときは家族が病室へ入ることを許されたのです。酸素マスクの中で激しい呼吸をする母。お医者さまによれば、「心臓が生命維持のために必死になって働いている。体の反応なので、お母さまにつらいという感覚はないはず」とのこと。

意識はなくとも耳は聞こえているといいます。「父ちゃんのところに行くとまた大変だから、逝くのはゆっくりでいいよ」などと声をかけました。ロスの弟もスマホのビデオ電話で「母さ~ん」と呼びかけます。返事はありませんが。

激しい呼吸が次第に静かなものに変わり、間遠になり、「これで最後か」と思ったら、また小さな呼吸が……。息をひきとるまでの7時間あまり、初めの激しい呼吸から、最後のひと呼吸に至るまで、私と下の弟2人で看取ることができました。

父が亡くなったとき、臨終に間に合わなかった私はずいぶん泣いたものです。ところが、もっと悲嘆にくれてもおかしくないと想像していた母の最期に、私はさほど涙を流しませんでした。母の死を受け入れられない、というほどの激しいショックは、このときも、今もありません。

なぜなのか……。母の生命が刻一刻と失われていく過程を最期の瞬間まで見届けたことで、時間をかけてその「死」を自分に納得させていく作用が働いたのではないでしょうか。大切な人の死に立ち会えなかった人はたくさんいます。それを思えば心苦しいのですが、「最期を看取る」ことの意味を実感したのも、確かです。

母が亡くなった5月は移動や人の集まりに制限がかかった緊急事態宣言下でしたから、私たちきょうだいとその家族など、本当に近しい9人が参列するごく小規模な葬儀を執り行いました。

ロスの弟はなんとしても参列したいと言いましたが、成田空港に到着したとしても、PCR検査と2週間の自主隔離が必須。それだけ長い時間足止めを食らうとなれば、葬儀への参列は不可能です。

そこで、ご住職に頼んでお寺の本堂にパソコンを持ち込み、葬儀を中継することにしたのです。弟はリモートで参列。ロス側を映し出すパソコンの画面には、喪服を着て数珠を握り正座した弟とその妻、息子の姿が。弟一家ははるか遠く離れた場所から、ご住職の読経に手を合わせ、出棺までしっかり見届けることができました。

高齢化時代の葬儀では、大切な人を見送りたくとも、参列するのが体力的に難しいという人は多いはず。しかも、暑かったり寒かったりで、これも体にこたえる。その意味でも、無理をせずにお別れができるのはありがたいことです。前例のない新しいことに対し、私のようなアナログ人間はつい腰が引けてしまうけど、一度やってみれば「あら簡単、これいいわ」となるわけで。「新しい生活様式」のひとつとして、ネットを活用した葬儀もあり、ではないでしょうか。