常に父とともにあった母の得難い人生
母のこれまでを振り返れば、すべてが父中心に進む家のなかで、父のワガママを常に「はいはい」と受け止めてきました。父と別個の人生なんて、母にはありません。私が母と2人でどこかに出かけた記憶もごくわずか。「お母さんを借りて出かけるから」と言えば、「困る」と父。「借りる」という感覚がそもそもおかしいのですが。
見かねた知り合いが、父抜きの食事に母を誘ってくれたときのこと。父がすんなり許すはずはなく、実現のために画策しました。弟が父を誘って食事に連れ出す。その間、私は母を連れて知人の待つレストランへ、という算段。ところが食事のさなか、父がやってきたのです。「迎えに来た。どうせ同じところに帰るのなら、タクシーを2台使うのはもったいない」。知人とおしゃべりする余裕もなく、食事もそこそこに、母は父に拉致されるように帰宅したのでした。
ただ、絶対君主の父に振り回されて母の人生が不遇だったかといえば、それは違う気がします。父は母がいないと機嫌が悪いぶん、どこへでも母を連れていきました。海外旅行では珍しい場所に行き、面白い人たちにもたくさん会った。なかなかできない得難い体験もいろいろあったはずです。
また、自己中心な父のそばにいたおかげで、はたから見た母の点数は高かった。「かわいそうなみよちゃん」「耐えてよく頑張っている奥さま」というわけで、みんなから可愛がられていました。母にも欠点はあったはずだけど、父の毒の前に、すべて消えて見えない。黒の隣にいればグレーが明るい色に見える、というような(笑)。そうした役得もあって、父以外の人たちからは本当に優しくされた母の人生でありました。
その母が認知症に……。父が高齢者専門病院に入院した段階で、母は自由な時間を手に入れたはずでした。私は前々から、いつか母と旅行しよう、温泉にも連れていこう、一緒に買い物もしよう、と考えていた。けれど、そのときすでに母の認知症は始まっていて、父が亡くなったら実行しようと思い描いていたことは、すべてできなくなっていたのです。それが何より切なくて……。私自身も、初めて訪れるはずだった母と娘の時間を奪われた気がして悔しかった。ただ、なったものはしょうがない。
それまでの抑圧の反動で、認知症になった母が攻撃的な性格になるのではと危惧しましたが、そういうことはなく、パッパラパ~と突き抜けた感じに。もう父のごはんを作らなくていい、面倒を見なくていい。自由はきかなくとも縛られていたものから解放され、のびのびした時間を手に入れたのでしょう。
そうなると、私が「母さん、たまにはごはんを作ってよ」と頼んでも、「エッ、私が?」。そして「お手洗いに行ってくる」と言って戻ってくると、「ふふふ~ん」と鼻歌まじりのすまし顔でソファに座ったまま動かない。再び、私「ごはん作って」、母「エッ、私が? お手洗いに行ってくる」……その繰り返し。こりゃ、ダメだ。(笑)
変わりゆく母を受け入れられず、イライラした時期もありました。それは、まだ「頼れるちゃんとした母親」として見ていたから。やがて症状が進み、「これに着替えて」と服を差し出すと、パッと取って、「ぷうっ」と言って私に投げつけたり、セーターを脱ぐのに顔のところで引っかかった格好のまま動かず、ずっと立っていたり。そんな母を、自分がケアする側なんだと自覚すれば、幼子に対する母親のような気持ちになりました。
母は明るくボケていき、こっちが笑っちゃうようなことをしてくれる。親のことをこう言うのもなんですが、実にチャーミング。その可愛らしさが介護の大変さを救ってくれました。