小学五年生の冬休み、ぼくは母親と街へ買い物に出かけた。たった一年で縦にも横にも大きくなったので、新しいコートを買ってもらう予定だった。
「おまえ、どこまででかくなるつもりだ」
母親はダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、ぼくを見下ろして舌打ちをした。母親はガラも言葉遣いも悪い。けれどぼくを見る目元は笑っている。
「お父さんも大きかったんだよね?」
「そう、布袋寅泰(ほていともやす)と同じ百八十七センチもあったんだ。だからおまえもどんどんでっかくなるし、コートや靴もすぐに買い換えだ。まったく、あたしは休む間もないよ」
母親は嬉しそうに灰色の冬空を見上げる。
「高校生になったら、ぼくもアルバイトするね」
「駄目だ」
きっぱりとした声が降ってきた。
「バイトなんかする暇があったら勉強しろ。そんでいい大学に行け」
「お母さんだって中学しか行ってないくせに」
「だからこそだ。大人になってから散々苦労したから、学歴はあったほうがいい」
「勉強好きじゃない。やってもできないし」
得意な理科のテストですら、七十点がいいところだ。
「大丈夫。おまえは背が高くて頭もよくて品もよかったお父さんに似てる」
母親はいつもそう言うが、ぼくは疑っている。不良で高校を中退した母親が、そんな完璧な父親とどこで出会って恋に落ちたのか。父親はぼくが生まれる前に病気で死んでしまい、写真の一枚もないので顔もわからない。お父さんは写真が嫌いだったと母親は言う。
「おまえもがんばったら成績が上がる。いい大学に入って、いいとこに就職できる」
「一応がんばってみるよ」
電車がやってきて母親と乗り込んだ。一度大きく揺れて、ゆっくりと流れ出す窓の景色を眺めていると、向かいのホームの一番端のベンチに座っている女の子に目が留まった。
――藤森さん?
長い黒髪をポニーテールに結っていて、首にふわふわしたファーがついた白いコートを着ている。スカートから伸びたハイソックスの足は行儀よくそろえられている。
ぼくと藤森さんは同じ小学校のクラスメイトだったが、大きな総合病院の娘である藤森さんは、当時からすでにお嬢さまの誉(ほま)れ高い美少女だった。対するぼくは地味なぽっちゃりくんで、人生のある時期、便宜上同じ箱に放り込まれているというだけで、特に親しくはなかった。
お嬢さまでも電車に乗るんだなあと馬鹿な感想でその場は終わったのだが、買い物を終えて夕方に帰ってきたときも、同じベンチに藤森さんの姿を見つけて首をかしげた。
行きも帰りも一緒になるなんてすごい偶然だ、とそのまま通り過ぎることができなかったのは、今日は午後から雪が降り出し、ホームの端にあるベンチには雪が吹き込んでいたからだ。
「お母さん、ちょっと本屋さん寄るから先に帰ってて」
あんまり遅くなるんじゃないよと母親は階段を上がっていき、人もまばらなホームでぼくは藤森さんを盗み見た。うつむきがちに座り、次の電車が入ってくると顔を上げ、けれど乗ろうとはせず、ただ見送る。吹き込む雪がポニーテールにまとわりついていて、すごく寒そうだ。風邪をひくんじゃないかな。ぼくはそろそろとベンチに近づいていった。
「藤森さん」
思い切って声をかけると、藤森さんがびくりとこちらを向いた。
声をかけたもののなにを話していいかわからないでいると、藤森さんも気まずそうに目を逸(そ)らした。特に親しくもないクラスの男子への態度を決めかねている。ぼくは焦った。
「藤森さん、お昼もここにいたね」
「え?」
「行きの電車でも見た。あれから、ずっといるんじゃないよね」
凍えちゃうもんねと空気を和ませるよう笑ったが、藤森さんはうつむいたままだ。
「別に平気だし」
「え、本当にずっといたの?」
「江那くんに関係ないでしょう」
遮(さえぎ)るような言い方だった。いつでも誰にでも優しい優等生の藤森さんが、今はむっと眉根を寄せている。ぼくはずうずうしく話しかけたことを後悔した。
「そうだね。あの、ごめん」
じゃあと行きかけたぼくの目の端に、真っ白なコートとの対比で鮮やかな赤に染まっている細い指先が見えた。ぼくはポケットを探ってカイロを取り出した。
「これ、あげる」
かさかさと音を立てるカイロを、乱暴に藤森さんのスカートの上に落とした。じゃあねと今度こそ行こうとしたが、「あ」と藤森さんがなにか言いかけ、おそるおそる振り向いた。
「ありがとう、カイロ」
ぼくはぶるぶると首を横に振った。使いさしだから気にしないで、そんな簡単な言葉が出てこない。ぐずぐずしているうちに藤森さんの様子が変わってきた。
指先どころではなく、藤森さんの目元や鼻の頭まで真っ赤に染まっていく。目の縁に涙が盛り上がっていく。それを食い止めるように唇をきつく噛みしめている。怒りをこらえているようにも見えて、いつもお嬢さま然と微笑んでいる藤森さんとは別人のように見えた。
ひときわ強い風が吹いて、ぼくたちの間を雪が斜めに突っ切っていく。白くけぶる世界の向こう。目も鼻も赤く染めている藤森さんから目が離せない。自分が根こそぎ引っこ抜かれる植物になった気がした。引っこ抜かれて、どこともしれない場所へ連れ去られていく。
「八つ当たりしただけなの。ごめんなさい」
藤森さんは鼻をすすり、盛り上がった涙はぎりぎりで零(こぼ)れ落ちなかった。
出てこない言葉の代わりに、ぼくはポケットからアポロチョコを取り出した。デブのポケットには、いつでもなにかしらのおやつが入っているのだ。
「食べる?」
唐突に差し出されたアポロチョコを見つめ、藤森さんがこくりとうなずく。ぼくは間合いを計る猫のように慎重に近づき、ひとりぶんの間を空けて藤森さんの隣に腰を下ろした。
はいと箱の口を開けると、藤森さんはありがとうと手を出してきた。赤く染まった華奢な手のひらに、ころころとアポロチョコを三粒ほど転がした。ピンクと茶色の三角。
「わたし、これ好き。かわいいよね」
「うん、ぼくはいつも口の中でイチゴのとこと普通のとこを分けて食べる」
「わかる」
藤森さんはカイロを頬に当て、口の中でアポロチョコを転がしている。口元をもごもごさせている藤森さんの横顔をぼくは盗み見ている。ふたりぶんの白い息が冷えた空気に放たれる。
「それ、切符?」
藤森さんがカイロと一緒ににぎりしめているものの端がちらっと見えている。藤森さんは黙って口の中でアポロチョコを転がしたあと、観念したようにうなずいた。
「東京に行くの」
「ひとりで?」
小学五年生なのでバスも電車もひとりで乗れるけれど、東京へは広島駅から新幹線に乗らないといけないし、広島駅はここから何駅も先だ。ぼくは新幹線の切符の買い方もわからない。
「遊びに行くの?」
少し考えたあと、藤森さんはこくりとうなずいた。
「でも、やっぱりいざとなると怖くて」
「それでお昼からずっとここにいたの?」
藤森さんはまたうなずいた。
「行かなくてよかったよ。小学生がひとりで東京なんて危ないし」
藤森さんは答える代わりに、カイロをそっと鼻と口元に当てた。首元の真っ白なファーが、寒さや他のなにかの作用で赤く染まった藤森さんの頬や目元を際立たせている。